い魯艦に追ひ越されたのではないかと考へる。つまりプーチヤチンの手紙が、彼の船よりおくれずに江戸へ着くことが出來たらば、「兵庫洋にあらはれた異國船」の正體が早くわかつて、大阪市中ももつと平穩であることが出來たらう。
 慶長、元和以前の昔は知らず、家光以來の二百數十年、海の日本に船らしい船が造られなかつたといふことは記憶さるべきであつた。ゴンチヤロフが不思議がつた「何故貴國の船は艫のところにあんな波の入る切込みをつけて、不恰好な高い舵をはめてゐるのか?」といふ船は、日本の海岸を這ひまはるだけであつた。勇敢なる船乘高田屋嘉兵衞が國後、擇捉間の航路を拓いた苦心は、海の日本の誇るべき語り草であるが、吃水の深い波の入らない異國の船は、嘉兵衞のやうに勇敢老練でなくともその一世紀もまへから赤道を横切り、太平洋を横斷し、北氷洋から千島列島を南下することも出來た。水戸齊昭の主唱によつて幕府の「大船建造禁止法」はまづ打ち破られたが、この大きなギヤツプ、造船技術、航海技術を急速にうづめないことには、あらゆる異國船は、依然として日本の海岸を脅やかすだらう。弘化、嘉永以後、特に安政の開港以後は、當時の日本にとつて、何よりも船だつたと察することができる。
 十月十四日、プーチヤチンの軍艦「デイヤナ號」以下三隻は下田へ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航してきた。筒井、川路らは同月十七日再び任命されて下田へ出張。十一月一日から「下田談判」は始まつてゐる。同四日には下田の大海嘯で一帶の大被害、魯艦一隻も大破損、のち修理をもとめて港外へ曳航中沈沒などの出來事があつて、會談は十二月二十一日までかかつて「日露修好條約」は成立した。箱館、下田、長崎三港をロシヤ船及び同漂民のために開いたこと。日露の國境はエトロフ島とウルツプ島の間、カラフト島は境界をわかたず從來仕來りの通りと決定。スパンベルグ以來百年め、ロシヤは漸く半ば目的を達したわけであつた。
 この周知の「日露修好條約」文を讀むと、「日米修好條約」文とくらべておもしろい。國境問題を除けば、内實としてはどちらも殆んど同じ骨子であるけれど、「日米修好條約」文の「日本と合衆國とは、其人民永世不朽の和親を取結び、場所人柄の差別無之事」といふ第一條のアメリカ的な文章にくらべて、「日露修好條約」文のそれは至つて地味である。「今より後、兩國末永く眞實懇ろにして、各々其所領において、互に保護し、人命は勿論什物においても、損害なかるへし」といふのが、同じ第一條である。つまり後者の方が前者にくらべて幕府的自主的な匂ひがする。内容ではなくて文の調子といつたものを指していふのであるが、このへんにも林大學對ペルリと、川路對プーチヤチンの相違があるやうだ。
「日露修好條約」の場合も、蔭にかくれた長崎通詞らの活動を考慮にいれなければならぬ。川路は「日米修好條約」が成立してから間もない四月二十九日付で、アメリカ應接係の林大學へ通達して「紅毛大通詞過人森山榮之助儀――當分拙者共手付にいたし置候樣、伊勢守殿被仰渡候、尤此程及御答置候通魯西亞人渡來迄は、下田表御用相勵、拙者共において先は差支無之候、此段爲御心得及御達候也」といふので、つまり阿部伊勢守殿も御承知の事、榮之助は依然自分たちの手付だからお含み置きを乞ふといふわけである。「魯戎」はいつ渡來せぬとも限らぬ。しかもすぐれた通詞は絶對必要で、榮之助など奪ひあひだつたわけであらう。榮之助は改め多吉郎となり、士分にとりたてられて、「下田談判」のときは、「横濱談判」のそれよりも活動したのであるが、他の通詞たちも、長崎から出役してくるほどの者はそれぞれにすぐれてゐたにちがひなく、記録に殘つてゐなくても、當時の海防係を援けていろいろと活動したことは疑ひないところである。
 川路は力量才幹ある政治家であつた。ペルリ以上の人物と謂はれるプーチヤチンと太刀打の出來る外交家は、當時の幕閣において、川路をのぞけば他になかつたらうとさへ、今日の歴史家は云つてゐる。プーチヤチンもまた前二囘のロシヤ遣日使節にくらべて出色の人物であつた。當時のプーチヤチンの立場はまつたく四面重圍のなかにあつたので、ペルリの比ではない。「長崎談判」以前から始まつてゐたクリミヤ戰爭は、そのころは日本の海岸までに及んでゐた。英佛の艦隊はプーチヤチンの「デイヤナ號」および乘組の兵員を捕獲しようと、安政二年の三月五日と十一日には、佛艦「ポーテアン」が大砲六門をならべて、下田沖合に出現したし、同じ十二日には、箱館に三隻の英艦があらはれて、大砲四十門をならべて、プーチヤチンの歸航を待ち伏せてゐた。故國を離れてすでに多年萬里の異境にあつて、しかも彼はそこでも「招かれざる客」である。ロシヤ使節に對する水戸齊昭のある種の意見、阿部の返翰などの記録がそれを
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