が「撃攘」となるか「和」となるか、複雜な事態にも思ひを及したらう。撃攘と和とそのいづれを望んだか、彼の日記にも明らかでないけれど、實際家である川路は、開國は必至、ただ國の安泰と面目を維持して、どう自主的にするかと考へてゐただらう。川路は江川や筒井らと共に當時の役人中新らしい政治家とされたが、必ずしもハイカラとはいへない。いはば深謀才能ある誠忠無二の武士だといへよう。彼は先んじて寒暖計や懷中時計を生活にとりいれた人だが、實際に便利なるがためであつたやうだ。同年十二月、日露の下田談判進行の際、魯艦が修理のため※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]航中颱風に遭つて沈沒したとき、日記にかう書いた。「十六日くもり。昨今にて魯戎之條約も大かたは片附くべし、この戎の存外なるは左衞門尉などの少もはたらきにあらず、一ツの不思議を證としてあぐる也、それは異船沈みたる一條也、――朝まで天氣のどかにて船頭共もよろしと申たれば曳船百艘ばかり附、二里ほど曳き參りたるに一朶の怪雲出で、船頭あやしとみる間に俄に西の大風起りて、山のごとき立浪きたりてフレガツトの城を水中に置きたる如き船をくるくる※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]したり、その勢ひおそろしと申候も大かたなり――」
江川はまだ若く、筒井は老年、海防係として幕閣中の囑望をあつめてゐる川路であつたが、しかし川路在府で林に代つてゐたとしても、「神奈川條約」があれとはまるで異つたものにならうとは考へられない處であらう。筒井、川路の江戸歸着のときは幕閣の方針も「和」にむかひ「穩便」に決してゐたときであつた。歸着※[#「勹<夕」、第3水準1−14−76]々の二月二十五日付で、筒井、川路より阿部伊勢守へ宛て「今般亞米利加人渡來いたし候に付、御挨拶之儀、一體之御趣意、何卒以御書面私共より魯西亞人へ挨拶及置候趣と齟齬仕候儀無之樣仕度候。――亞米利加への御挨拶はとりも直さず魯西亞人への御挨拶と不思召候ては後日大事を引出可申と甚懸念仕候」と書いたのは當然である。しかし林對ペルリの交渉は、「通商拒絶」では一縷の面目を保つたけれど、漂民取扱の一件は修好條約にまで發展してしまつた。林も事前に逃げを打つて「魯西亞人――再渡之節は應接致し方餘程六ヶ敷可相成――月末迄には筒井肥前守川路左衞門尉も歸都可被致候間――引續き兩人にて取扱候樣宜敷被仰渡候樣、前々御申上置可被下候――」と江戸老中宛に書いてゐる。
したがつて六月二十八日、ペルリが日本を退帆しても海防係たちの苦心は去つたわけでなかつた。そして果然、プーチヤチンの軍艦は九月十八日に思ひがけなく兵庫洋にあらはれた。大阪市内には城代からの緊急町觸れが出て、畏くも同月二十三日には七社七寺へ御祈祷のことなどがあつた。その他安治川尻に進航してきた一行の船をめぐつていろいろの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話ができる騷ぎであつた。昌造が魯艦との間に桂小五郎や五代友厚などの通辯をしたのもこのときだと、前記三谷氏の文にあるが、いまは確實な資料をもたぬので述べぬ。しかし大阪市中の騷ぎにも拘らず、沖にゐる魯艦は至つて平穩だつたと大阪城代の記録が誌してゐる。
九月二十九日には老中よりの諭書が魯艦宛に屆いて、同日即刻大阪城代から沖合にゐるプーチヤチンへ手交。「――箱館において差出され候横文字並に漢文之書翰、江戸到着致し、老中披見に及び候、大阪港は外國應接之地に無之故、總て應對難致候、伊豆下田港え渡來可致候、筒井肥前守川路左衞門尉も速に下田え可相越候間、得其意、早々下田港え相越候を相待候也」といふのがそれで、文中、箱館においてプーチヤチンから江戸老中宛に出した書翰といふのが、まだ出役中で江戸滯在の森山榮之助及び本木昌造兩人で飜譯したものである。「大日本國の執政に此一翰を呈す」とはじまつてゐるが、この飜譯文などは從來の長崎通詞の譯文としてはきはだつてハイカラになつてゐる。「我長崎の港に至りし度、日本政府の貴官に告しは、二ヶ月を經てアニワ港に赴くへしと。然るにロシア國とヱゲレス國フランス國との不和ありしに依て、我國の海濱を去り難きに及へり。――もはやその事果て、箱館に來り、此一書を江戸に送つて、フレガツトに薪水食糧を貯んとす。――日本政府の貴官と治定の談判を遂んかため、此地より直接大阪に赴くへし。――日本政府の望み江戸に於て治定の談判ありたしとならは其旨大阪に告示あらんことを乞ふ、速に江戸表へ來るへし。」
さらにこのプーチヤチン署名の書翰の日付をみると八月三十一日で箱館奉行へ呈出されたものであつた。私はこの緊急重大な書翰がどんな交通機關によつて搬ばれたか、蝦夷から江戸に何時到着したか明らかにしないが、恐らく「薪水食糧を貯」へて數日後に出帆した船足のはや
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