下候ても、急度相屆申候――。
[#ここで字下げ終わり]
云々と、以下まだ數行つづいてゐる。
これでみると、ポートマンは榮之助はもちろん、昌造とも個人的には相許した仲だといふことがわかつて、びつくりさせられる。
ペルリ側通譯官として活動したポートマンが榮之助へ宛てた書翰はこの他にもあつて、たとへば徳富蘇峰氏の「近世日本國民史卷三十二」にも採録されてゐる。それは四月十六日付で、ペルリ一行の箱館行以前、日本品の賣買について當局の緩和方を懇請したものであるが、しかし七月二十九日付で堀達之助、志筑辰一郎連署で飜譯されてゐるこの書翰は、文章が示すとほり至つて私的であつた。アメリカ使節一行は、日本退帆後、七月十一日琉球那覇着、同十九日に那覇出帆、アメリカ東印度艦隊根據地の上海から香港を經て、カープホーレルと譯されたケープトーンつまり喜望峰を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]つて本國に歸つた。この手紙に琉球のことも香港のことも書いてないのは、先方の政治的意圖に制限されてゐるものだらうと察せられるが、文中にあるごとく、「サウタンポン船持越候石炭積請」といふのが、べつの記録に北海道室蘭から石炭を積んできて出發直前に補給したといふ事實があるから、この手紙は下田出發の直前に出されたものと推察することが出來る。六月二十八日の下田退帆だから、飜譯出來るまで一ヶ月餘を費してゐることになるので、この私的な一書翰の取扱についても、いろいろと當時の事情を推察できる氣がする。
榮之助が自分宛の手紙を他人によつて飜譯される以前に讀んだかどうか? 別送の「状紙」が榮之助の手に渡つたかどうか? また榮之助がポートマン書面のごとく昌造へ「傳聲」したかどうか? ましてや「状紙」が昌造にもわけられたかどうか? 私にはまるでわからない。「状紙」とは歐文を書くのに適當な西洋便箋のことにちがひなく、榮之助が蘭語のほか英佛語にも長じてゐたことは前に述べた通り、また昌造も祖父庄左衞門以來、長崎通詞中で英語の家柄であつたから、多少の程は知らず、出來たにちがひない。
しかし恐らくこの書翰は公文として公儀に止めおかれたらうし、榮之助も昌造も、その「状紙」によつてポートマンと書翰の往復はしなかつたであらう。條約は成立したが、まだまだそんな空氣でなかつたことは前にみたとほりだ。「――兼て御約諾致し置候通、追々御安否御書送被下候」云々も、當時の外交事情のうちで置かれた通詞らの位置といふものを考へれば、どれくらゐ表裏ある「御約諾」だつたかも知れぬ。しかしまたそれにも拘らず「猶私よりも評判記且御入用にも候はば――失念仕間敷候」云々のごときは、敵とすれば大敵である「墨夷」を知るためにも、こちら側で是非と欲した感情が、うかがはれるやうである。
殊に文中卒然としてでてくる「本木昌造樣へも御遣し被下度、且御同人之御動靜直書にて承知致し度」云々は、何かしら、もつと苛烈なものが感じられるではないか。それは單に、數ヶ月の接觸のうちで育まれた親しみだけとはちがふ。數ある通詞のうちで、昌造だけがポートマンにこのやうな印象なり、注目なり、親しみなりを與へてゐるといふことは、長崎通詞一般とはちがつた何かが、たぶんはヨーロツパ文明のどの方面へかのズバぬけた理解と、探求のはげしさがあつたのだらうと推察できる。
三
「――西の海へさらりとけふの御用濟み、お早く歸りマシヨマシヨ」と、正月十六日の日記にかう書いた、「安政の開港」の立役者川路左衞門尉は、無事日本の面目を辱しめず、プーチヤチン使節を退帆せしめて同日長崎を發つたが、同二十七日には、もはや江戸の騷ぎを知つて心を痛めねばならなかつた。「――長門下關え着――一昨日より浦賀え異國船渡來の説、いろいろと申――さる島へかかりたるはアメリカ船にてペルリの黨なるべし、江戸にてはいかにやと昨日は少もねられ不申候」。川路の日記で考へると、その長崎出發直前に榮之助は挨拶にきてゐるのであるから、前記一月末日に江戸參着といふ「村垣日記」と照合すれば、榮之助たち長崎通詞は十日間くらゐの早駕籠で筒井、川路の行列を追ひぬいたか、特別な便船で海上を江戸へむかつたかといふことになるが、恐らく確實性のある前者によつただらうと思はれる。
とにかく當時でも江戸のニユースが下關へんまで十數日でつたはつてゐることがわかるが、海防係川路の惱みは大きかつたにちがひない。林大學も老中宛のある書翰で「墨夷」と「魯戎」は相はからつて、魯戎が長崎でネバつてゐるうちに一方墨夷に先乘りさせる魂膽だ、といふ意味を述べてゐるが、半年も經たぬうちに再來したのは、まさしく不意打の感があつたであらう。また前年渡來のときの態度からして、なかなか「ぶらかし」なども容易でないと考へられたらうし、留守中の幕閣評議
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