分であつた。したがつて記録にも主體的にはあらはれない。大通詞榮之助でも、先に魯西亞應接係勘定奉行川路左衞門尉の懷刀であつたし、いまは幕府側全權林大學の相談相手であつても、公式な記録には、ごく些細な事務的折衝でゆく、浦賀奉行配下拾石五人扶持くらゐの同心にでも「――榮之助を召伴れ」といふ風になつてゐる。ここでは詳述を避けるが、前記した條約成立以前にペルリを旗艦に訪れて「腹さぐり」をやつた榮之助、同じく米人宣教師が持歸つた日本貨幣取戻しの一件、米艦に護送された漂民が役人をみて甲板で土下座してしまつたときの榮之助の處置、殊にペルリ側通譯官ポートマンとの間に、同じ通譯としての立場から相當重大なことまで折衝して、事態の圓滑な進行をはかつた榮之助はじめ通詞らの活動――。かういふことが公式記録にはわづかしかあらはれない矛盾があつた。たとへばペルリ側の記録「日本遠征記」には、林大學や井戸對馬と並んで、澤山の通詞が肖像入りで主體的に記録されてゐるのに比べると格段の差があつて、これを異國人の一番身近に接した親しみからだとばかりするは當らない。
しかしそれにも拘らず、幕府外交の緊要さはもはや頂點に達しつつあつた。わづか三ヶ月の差であるが、たとへば榮之助だけにみても、「長崎談判」のときの彼の活動權限と「神奈川條約」のときのそれとは比較にならぬほど廣汎になつてゐる。理由の一つには後者では條約が成立したこと、長崎とちがつて横濱ではそれが未經驗であつたことなどもあるだらうが、決してそれだけではないにちがひない。新らしい原因は、何よりも從來のやうに幕府役人の誰かが下向してきて「諭書」を讀みあげるだけでは事態が收拾出來なくなつたこと。相手方の通譯官といふのが同時に外交官であつて、「長崎通詞」とは比較にならぬ權限とはたらきを備へてゐることなどにも刺戟されたであらう。「長崎談判」以來の功勞で、在府中だけ帶刀御免をされた榮之助は、つづいて起つた同年末からの「日露修好條約」には、名を多吉郎と改め普譜役に[#「普譜役に」はママ]任用され、のち外國通辯方頭取となつたし、このときの小通詞堀達之助も士分に取立てられ、蕃書調所教授となつた。
これらは「安政の開港」をめぐつて、通詞らの職務がどんなに重要になつてきたかを示す證據であらう。しかも彼ら通詞を通詞としての職務からだけでなしに、外國語に通じ、外國文明に多少なり通じてゐる「人間」として考へるときは、その範圍は更に廣くなる。榮之助改め多吉郎の「外國通辯方頭取」は、一種の外交官であるだらうが、堀達之助の「蕃書調所教授」となると、もつと學問的になつてくるやうに、のちの昌造の「長崎製鐵所頭取」となると、さらに範圍が廣くなる。つまり通詞といふ職に統一されて、同じ蘭語や、それぞれ多少の英、佛の外國語に通じてはゐたが、この開闢以來のヨーロツパとの國交開始に當つては、それぞれの人間的特徴をもつてはたらいただらうし、その特徴は分化する運命にあつた。しかも殘念ながら私はペルリ來航當時の昌造のはたらきぶりを殆んど知ることが出來ないのである。
しかしたつた一つ、私としては思ひがけないめつけものがあつた。「大日本古文書幕末外交關係書卷七」に、七月二十九日付の飜譯による、ペルリの通譯官ポートマンから森山榮之助宛の書翰があつて、その文面中、昌造がでてくるのであるが、それは「米通譯官ポートマン書翰、和蘭大通詞森山榮之助へ歸國につき挨拶の件」とあつて、「榮之助君え」と親しく書き出してある。
「私共今晝後、八ツ半時頃此所へ着船致し、サウタンポン船持越候石炭積請、可相成丈急き當所を出帆いたし、カープホーレルを※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、ネウヨルクえ罷歸申候。其節ホノリリユ、サンフランシスコ、パナマ、カウヲ、フアルハレリ、リヲゼナイロに立寄申候。
其許樣え、お目に掛り候儀不相叶、殘念に候得共、兼て御約諾致し置候通、追々御安否御書送被下候はば大悦に存候、猶私よりも評判記且御入用にも候はば右樣之品差送可申、失念仕間敷候。此度は聊之状紙差送申候間、私え御状之節右紙え御認被下度希上候、石状紙之内、本木昌造樣へも御遣し被下度、且御同人之御動靜直書にて承知致し度、其旨御傳聲希上候――爰に筆留致し候。
――大切之御用御勤被成候褒美として、大才之御許に相應之御昇進有之候樣、相祈申候――。
[#地から4字上げ]其許好友の ポートマン
尚々
私え御出状之節宛名左之通
[#ここから4字下げ]
ア・エル・セ・ポートマン・エスクエ、ネウヨルク・ユナイテツト・ステーツ・ヲフ・ヱメルケ・ヘルヲーフルレントメールフエ・マルセールス。
[#ここから1字下げ]
右書状は下田え渡來之アメリカ船、又は長崎之ヲランダ船へ御托與被下度、又はヱゲレス船、フランス船へ御遣し被
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