か? 多くの歴史書が傳へるやうに、當時幕府の「御武備御手薄之故」彼の砲身の長い大砲と、煙を吐いてはしる黒船に、ある程度は氣壓されたと殘念ながら認めねばなるまい。たとひ水戸齊昭でなくとも、當の林大學でさへ「殘念至極に候得共」であつて、幕府自體尠くとも進んでやる氣はなかつたのである。云ひ換へればペルリの成功、共和黨時代に遣日使節兼東印度艦隊司令長官に任命されたペルリが、民主黨が代つて共和黨時代の對日方針を訂正しても、飽迄共和黨時代の方針で押し切つた成功であらう。
 しかしまた當時の日本の政治家たちが、單にペルリの恫喝に屈したとのみ考へることは出來ない氣がする。幕閣の多くが武備手薄を楯にとつて「通商やむなし」といつた意見の表現の仕方にも、いろいろの角度があつたのではないか? 弘化元年和蘭の「パレムバン」が來たときに、幕府は手きびしく追ひ返したが、そのとき水野越前は將軍の御前會議で「――慶長、元和の規模に復り、内は士氣を鼓舞し、外は進んでこれを取らん」と叫んだやうに、それから九年後の嘉永六年には、ゴンチヤロフの「日本渡航記」にもみるやうに「あのときは幕府の老中で贊成するものが二人だけだつたが、いまは反對するものが二人だけになつた」といふのにみても、表だつた記録にはみえなくても、鎖國に對する反對空氣は、甚だ複雜微妙ながら、相當つよく生れてゐたか知れぬと察せられる。
 その開國進取にもいろいろあつたらう。當時の困憊した經濟事情からただ利をもとめるやうなものもあつたらうし、齊昭が慨いたやうに士氣墮弱から安きにつく輩もあつたか知れぬ。それと同時に、深夜アメリカ軍艦を訪れ、祕密渡航を企て、捕はれた吉田寅次郎らの如き、尠くとも「進取」があつたのである。國法を犯しても宇内の知識をきはめ、もつて皇國の安泰をはからんとするやうな「開國進取」である。「開國」の文字も、安政末期以後の十餘年間は、複雜多岐な政治性を帶びてきて一概に云ひ難いが、この頃まではまだまだ素朴で、皇國の安泰と、武器のみに限らず文明をきはめて我物とする意慾とが、なだらかに流れてゐたと思はるる。ロシヤ使節の蒸汽軍艦に招待された日本人たちが、いかに知識慾に燃え、進取性に富んでゐるかについて、ゴンチヤロフは驚異をもつてそれを書いたが、ペルリの「日本遠征記」もそれを書いた。「――下田でも箱館でも印刷所を見なかつたが、書物は店頭で見受けられた。――人民が一般に讀み方を教へられてゐて、書物を得ることに熱心だからである。アメリカ人に接觸した日本の上流階級は、自國のことをよく知つてゐるばかりでなく、すこしは他の國々の地理、物質的進歩及び當代の歴史についても知つてゐた。――彼等の孤立した位置を考慮にいれると、その質問はまつたく注目すべき知識を有することを明らかにした。――鐵道や電信、銀版寫眞、ペークザン式大砲、汽船についても心得顏に語ることが出來たのである」
 これは主として蘭書仕込みの、「蘭學事始」以來百餘年に亙る澤山の學者の辛苦が育んだものであらう。そして鎖國のうちにあつても、進取の氣象を失はず、宇内の知識をきはめて日本の安泰を護らんとする氣象こそが、一面「神奈川條約」を自主的に成功せしめたものであつて、決してペルリの武威に屈したとのみは考へられない理由の一つである。

      二

 さて、わが昌造はそのときどういふ風にはたらいたであらう? 殘念ながら私の探しもとめた資料のうちでは、まことに僅かである。一は三月三日付の條約主文の飜譯文、二は五月二十五日付の約束の日本品授受についてペルリ側よりの抗議文の飜譯文のそれぞれに、前者は堀達之助と、後者は森山榮之助と共に署名捺印してゐること。他の一つは七月二十九日付飜譯のペルリの通譯官ポートマンより森山榮之助へ宛てた私的書翰のうちに昌造について觸れてある文章であつて、現在の私の力ではそれ以上を知ることが出來ない。
 昌造が長崎より神奈川の横濱村に參着したのは、「長崎談判」が終つて御用濟となつた正月五日から、神奈川條約文の飜譯をした三月三日の間であることはたしかであるが、「明治維新史料第二篇卷ノ三」に、二月一日付の「村垣公務日記」として「一、長崎通詞森山榮之助、昨夕着、今日、神奈川へ被遣候」とあるから、たぶんそれと一行したか、その前後であつたと考へることが出來る。それからいつごろまで横濱村に滯在したか? 前記五月二十五日付の飜譯文があるので、恐らくペルリ一行が箱館から下田へ歸つて、琉球那覇港へむかつた六月二十八日頃までではなからうか? 七月の初旬には「吉田東洋傳」の寺崎志齋[#「寺崎志齋」はママ]日記にみえるごとく、江戸築地の土佐侯造船場にゐたことが明らかだからである。
 ついでに昌造の安政二年までの動靜をいふと、元年九月には安治川尻にあらはれた魯艦について
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