一行中の一部を拿捕、兵員百數十名を捕虜として積みこんだまま、おやつをもらひおくれた子供のやうに慌てて條約をせまり、それを得て同じ月に去つた。以來幕府としては既定の方針を佛蘭西、和蘭にも與へたが、それらの批准はもちろん數ヶ年を要した。しかし「安政の開港」といへば、幾多の歴史書が示すとほり、最も重要點を嘉永六年から安政二年の間におく。昌造が通詞としての活動はまさにこの期間を終始してゐて、年齡でいふと三十歳から三十二歳までである。
ペルリ二度めの來航も、どんなに幕府をおどろかしたかは、澤山の書物にみえてゐて、詳述する必要はあるまい。前年七月浦賀にきて、アメリカ漂民の取扱及び日米國交と通商に關する大統領親翰をつきつけて退帆して以來、再渡は豫期されたが、あまりに早過ぎたのである。ペルリは、前年七月彼の艦隊が留守中に、ロシヤ使節が上海にきて、待ちかねて長崎へ行つたといふ情報を、根據地の上海へ戻つてから知り、ロシヤに先鞭をつけられるのを怖れ、豫定を早めて再渡來したのだといふやうな事情を、幕閣でも知るわけがなかつた。
三隻の蒸汽軍艦と四隻の帆前軍艦とは、前年碇泊地の浦賀を通りぬけ、無數の警衞船の制止もきかず、横濱近くの小柴沖まで進入してきたのである。當時幕閣では「ぶらかし案」以來、まだ確乎たるものがなかつたし、「二月四日、兩度老中へ逢候處――伊賀守(松平)專ら和議を唱え候、林大學、井戸對馬にも逢候處、兩人共墨夷を畏るる事虎のごとく、奮發の樣子毫髮も無之、夜五ツ時まで營中に居候得共、廟議少しも振ひ不申、いたづらに切齒するのみ」と、水戸齊昭の手記にみえるが如き空氣であつた。伊賀守は三奉行の一人、林、井戸の兩者は既にペルリ應接係を任命されてゐる當時者である。三ヶ月前、ロシヤ使節に對して、筒井、川路の應接係を長崎に差遣するときも、硬派の中心齊昭の頑張りで「通商拒絶」を決意したが、そのときはまだ「以夷制夷論」などいふものがあつた。しかし三ヶ月後には「通商やむなし」といふ風にもはや正面を切つた論が強かつたやうである。「ぶらかし」とか「御武備御手薄之故」とか、他動的なものではあつたが、「通商やむなし論」は多數だつたらしい。アメリカ應接係の一人松平美作守などは、なかなかハイカラで、第一囘會見のときアメリカ海軍軍樂隊の奏する洋樂に、手足をジツとさせてゐることが出來なかつたと、ペルリの「日本遠征記」には記録してある。從つて、副將軍齊昭は多勢に無勢、老中筆頭伊勢守はいづれとも決しかねて終始沈默をまもるし、「齊昭手記」は「二月五日、昨日廟議之模樣少しも不振、去月下旬より昨日迄之模樣――只々和議を主とし――老中はじめ總がかりにて我等を説つけ、是非和議へ同心いたし候樣にとの事にて、不堪憤悶、此まま便々登城いたし候ては恐入候故、今日は風邪氣と申立、登城延引」と書いたほどであつた。
もちろん、家慶將軍歿後は、水戸家は幕閣中の最高決定者であるし、「登城延引」の強硬態度は伊勢守をも動かしたであらうし、通信通商の儀は一切拒絶と漸く決まつた。「二月六日、今日五ツ半刻、供揃にて太公登城――通信通商之儀は決して御許容無之と、閣老決議之段申上、林、井戸へも其旨達しに相成候由、太公御快然可知」と齊昭の家來藤田は「東湖日記」に書いた。當時の江戸警備の物々しかつたことも周知のとほり。正月以來各藩は夫々に出兵して、福井は品川御殿山を、鳥取藩は横濱本牧を、桑名藩は深川洲崎を、姫路藩は鐵砲洲から佃島を、加賀藩は芝口を――といつたぐあひに萬一に備へた。幕閣では異變の際は江戸市民へ早盤木をもつて知らせるなど布令を出して、齊昭より「――墨夷及狼藉候迚も、何も御府内町人等へ爲知候には及不申、武家さへ心得候へばよろしき儀――その外は却て火元盜賊の用心、やはり其宅々を守り候方可然――」と叱られた程である。
しかし二月七日に浦賀奉行組頭黒川嘉兵衞は、アメリカ軍艦に參謀アーダムスを訪れて、應接所を横濱に設けたからと申入れた際、「承知仕候――乍序御談話に及候、此節相願候一件御承引不被下候はば、不得止直に戰爭を可致用意に候、若し戰爭に相成候得ば、近海に軍艦五十隻は留め有之、尚又カリホルニヤにも五十隻用意致し置候間、早速申し遣し候得ば、廿日の程には百隻の大艦相集り候云々」とおどかされたのであつた。まつたく不埓至極であるが、このおどかしは黒川嘉兵衞がたとひ勇武の人間ではあつても、まつたくヨーロツパ文明にくらいとすれば、何程にかは利きめあることだつたらう。
「――夷情察し難く、日夜苦心仕候事に御座候――阿蘭陀人、魯西亞人抔之樣に氣永には無之、至つて短氣強暴之性質故、義理を以て説破候ても、元より仁義忠孝之倫理は心得不申候――」と、アメリカ應接係たちも老中宛の書翰に書いた。やつと長崎を退帆させたばかりのロシヤへの振合も考
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