つた。――それは均齊のとれた丈の高い男で、上體を眞直ぐに起してゐた。艦内に入れないのできまりわるく思つてゐたか、それとも日本官吏たるの名譽以外に自ら恃むところがあつて、環境を理解してゐたのか、それは私に判らない。だがその男は見事な、さりげないポーズで、誇らかに甲板に立つてゐた。――その顏の表情にも、――あの愚鈍な自己滿足も、喜劇的な勿體ぶりも、底の知れた幼稚な陽氣さもなかつた。いや却つて、日本人たるの意識が、その足らざるところ、その求むるところの自覺が、雙眼にほの見えてゐるやうに思はれるのであつた。――」
 私はこれを井上滿氏の譯から引いてゐるのであるが、このへんゴンチヤロフの敍述はきびしくまた微妙をつくしてゐる。沖にゐるロシヤ使節の船を訪れる御檢視といふのは長崎奉行の與力以下で、その從者といふからには至つて身分のかるい武士だつたにちがひないが、それが何者であつたかは、日本側の記録でも知るすべがない。とにかくこんな新らしいタイプの日本人が、たくさん名も無い人間のうちにゐたにちがひなく、私らはちやうどこの頃、ロシヤ船に乘りこんで宇内の知識をきはめんとて、若い吉田寅次郎が江戸から長崎へむかつてすたこらいそいでゐたのを思ひだすだらう。
 そして當然通詞のうちにも新らしいタイプの日本人がゐたのであつた。ペルリの「日本遠征記」も一ばん自分たちに接觸の多い通詞をとほして日本人を判斷したやうに、ゴンチヤロフは、たとへば大通詞志筑龍太をもつとも古い型の「老廢化石した日本人の部類」と書き「吉兵衞はいくらか新鮮なところがある。彼は新らしきものに對する固陋な憎惡を持たない」が、しかし「彼は新らしきものを追及する氣力がない」と大通詞西吉兵衞について感じた。そしてこのロシヤの作家は森山、本木、楢林弟の三人に一ばん興味をもつて「――話の節々や――ヨーロツパ的なものを見るときに――榮之助、昌造、楢林弟などが、自己の位置を感知し、自覺し、憂鬱になり――」幕府役人たちの舊い理解に對して「――從順な、無言の反對派をなしてゐる」と書いた。
 昌造らがこのときどういふ風に活動したか、日本の記録でさがしてみたが、なかなかめつからない。「川路日記」などでは、彼の懷刀であつた榮之助が少し書かれてゐるが、充分でもない。しかもまだ「二流」の昌造などは公的な記録にはまるで出てこない。「日本渡航記」は榮之助の才氣横溢で、進取果敢な性格の一面も描き、一ばん下ツ端の小通詞助楢林榮七郎についても、ヨーロツパ文化を自分の眼で見たいと希望するこの青年の激しい性格をも描寫してゐる。それでわが昌造はゴンチヤロフの眼にどう映つたらう? と私は注意するのであるが、不思議と昌造だけはその特徴が描かれてゐない。
 昌造は「改め舟」に乘つてロシヤ人たちを迎へにいつたり、「番舟」に乘つて食糧を搬んだり、「御檢視」に從つて些細な事務的折衝の通辯をしたり、通辯だから「默々」でもないが、せつせと働いてゐることが書いてある。プーチヤチン祕書のゴンチヤロフは、そんなことで五囘ほども「昌造」といふ名に觸れながら、何者にも特徴をめつけたがるこの作家は、たうとう昌造の性格について觸れなかつたのである。
 ところが「――古文書幕末外交關係書卷ノ七」にロシヤ側からの贈物目録があつて、筒井、川路その他幕府役人はもちろん、通詞にも及んでゐる。通詞目付本木昌左衞門を筆頭に、西吉兵衞及び森山榮之助へ金時計その他、志筑龍太、本木昌造、楢林量一郎、同榮七郎等へ硝子鏡その他を贈つてゐるが、それから數日を經て本木昌造、楢林榮七郎へ「書籍一册づつ」といふのがあり、更に數日を經て、同じく昌造、榮七郎へ「ロシヤ文字五枚づつ」といふのがある。
 その「書籍」が何であつたか、私は知ることが出來ないが、「ロシヤ文字五枚」といふのも、その書籍を解讀するための手引か或は單語表みたいなものではないかと想像するくらゐで、これもわからない。しかし昌造と榮七郎へだけ贈られた「書籍」と「ロシヤ文字」は、何かしら贈る側ばかりではない、贈られる側からの意志も動いてゐる氣がする。
 外國から入つてくる物のうちで書物は一等きびしかつた。「日本渡航記」も書いてゐる。「あるとき――大井三郎助が吉兵衞をつれてやつてきた。――提督(プーチヤチン)も私も本を贈ると云つたが――斷然辭退した。海防係の一人で、幕府直參の三郎助でさへそれ程姑息で、それ程怖れてゐたのである。ロシヤ側からの贈物は、勿論長崎奉行の承認を經てから受取つたものであるが、それがどういふ名義であつたとしても、そこには記録にものこらない昌造らの意志や努力があつたのではなからうか?
 ゴンチヤロフが注意を惹かれながら、しかも簡單には觸れなかつた昌造の特徴や性格について、私はどつか内輪な、表情の尠い、しかも、底をついてゐるやう
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