いふ筒井や、齊昭でさへ一目おいたといふ川路らが、その任に選まれたなども、困難だつた當時の事情を語るものであらう。
「日本渡航記」はヨーロツパ人の優越感をもつて書いてゐる。「――日本人は軍艦に向つてはどうすることも出來ない。彼等は小舟より他に何も持たないからだ。この小舟には、支那の戎克と同樣に蓆の帆や、極く稀に麻の帆がついてゐて、そのうへに艫部が開け放しになつてゐるので、海岸だけしか走れない。ケンペルは自分の居た頃、將軍が外國に行ける船舶の建造を禁止した――と云つてゐる。」「ニツポン、ヨウジンセヨ!」
ところが、そのとき長崎にきたプーチヤチンの「デイヤナ」も、江戸にきた「ペルリの黒船」も、せいぜい四百噸ないし五百噸以下の蒸汽船だつたと、今日明らかにされてゐる。しかも當時の新知識といはれた川路でさへが、その翌年プーチヤチンが下田へきて、例の海嘯で破損した「デイヤナ」が宮島沖で沈沒したとき、「城をうかべたやうな黒船が」と日記に書いてゐる。聖明を蔽ひ奉り、國を鎖して、船といふ船が日本の海岸だけしか這ひ※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]れないやうにした封建政治の矛盾はかういふ風にあらはれてゐた。しかもそれはけつして船ばかりではなかつたらう。
とにかく當時の心ある日本人は、どんなに急激に眼をさましても追つつかぬやうな氣持であつたらう。殊に當時の制度では、海外知識の觸角であつた長崎通詞など、すぐれた人物は一樣にそんな氣持だつたと想像できる。大通詞西吉兵衞は西家十一世で、さきに開國勸告使節の「パレムバン」が來たときオランダ國王の親翰を江戸へ護送した責任者の一人、そして高島秋帆が師事して砲術を教はつた人である。大通詞過人森山榮之助はのち多吉郎と改めて幕府直參となり外國通辯方頭取となつた人で、前記したやうに川路のために英書を飜讀して北邊事情を明らかにしたが、彼の英語はアメリカ捕鯨船の漂民が崇福寺の牢屋敷にゐたのを日夜訪れて學んだものだといふ。しかも彼ら通詞が外交の舞臺でさへ扱はれた身分といふものはまことに低いものであつた。
「――全權は四人とも一列に並んだ。そして雙方禮を交した。全權の右手には兩名の長崎奉行が座に着き、左には江戸から來た高官とおぼしきものが更に四人ゐた。全權達の背後には、小姓が見事な太刀を捧げて坐つた。――全權達は話したいといふ合圖をした。すると忽ち、どこからともなく榮之助と吉兵衞が蛇のやうにするすると、全權の足下に兩方から這ひ寄つてきた。――」とゴンチヤロフはびつくりして書いてゐる。
しかしそんな封建政治の古い慣習のうちにも新らしい萠芽はあつたわけで、そのとき會見の第一日に、筒井肥前守のした挨拶はまことに堂々としてゐて、ロシヤ人をおどろかしてゐるが、これはのち萬延、文久頃からしばしば外國を訪れた日本使節のそれにも魁けて立派なものだつたにちがひない。「――老人が口を切つた。私達はじつとその目をみつめた。老人ははじめから私達を魅惑してしまつたのだ。――眼のふちや口のまはりは光線のやうな皺にかこまれ、眼にも聲にもあらゆる點に老人らしい、物の分つた、愛想のよい好々爺ぶりが輝いてゐた。實際生活の苦勞の賜物だ。この老人をみたら誰でも自分のお祖父さんにしたくなるだらう。この老人の態度には立派な教養を窺はせるものがあつた。――」と、流石に作家ゴンチヤロフは、一と眼で筒井肥前守を描寫してしまつた。
――「手前共は數百里の彼方から參りました。」と老全權は始終微笑をうかべて、懷しげに私達を見やつて云つた。「貴殿方は幾千里を越えておいでになつた。これまで一度もお目にかかつたことがなく、まことに遠々しい間柄であつたのに、今やかうしてお近づきになり、同じ室に坐つて、話をしたり、食事をしたり致してゐるのです。まことに不思議な、そして愉快なことではありませんか!」――。
「六十斤砲を撫し」てゐるロシヤ人たちが「――あの時雙方の共通の氣持を現はしたこの挨拶を、何とお禮の云ひやうもなく、有難く思つた。」と書いたのである。この立派な國際的な挨拶は、ゴンチヤロフの見事な筒井肥前守の描寫と共に、永遠に生きるであらう。
川路もまた立派であつた。聰明なこの日本人にロシヤ人たちはおどろいてゐる。「日本渡航記」の筆者も、シーボルトと同じく「日本人は支那人とちがふ!」と叫ばざるを得なかつたくらゐである。そしてこんな立派な日本人の努力が、三世紀にわたる鎖國の行詰りから救ひ、蒸汽軍艦を長崎で喰ひとめ、むげ[#「むげ」に傍点]には「六十斤砲」を發射させなかつたのであるが、ほかにも立派な、新らしい日本人がたくさんゐるのを、ロシヤ人作家はめざとくめつけだしてゐる。
「――私の注意を惹いたものがあつた。――私はその男の名を知らない。彼は從者だつたから御檢使と一緒には入らなか
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