現したのはこれが始めてではない。前に述べたやうに、アメリカのオリフアント會社仕立船「モリソン號」が、江戸や鹿兒島で砲撃を喰つて退出してから八年めの弘化二年に、ペルリと同じアメリカ東印度艦隊司令長官、海軍代將ビツドルが來航してゐる。そのときも同國海軍長官の命令に基く行動ではあつたが、ビツドルの任務は「日本に通商の意思ありや否や」を確かめるだけだつたから、幕府の拒絶にあふとおとなしく退去していつたのである。
 だから「嘉永の黒船」「ペルリの來航」といつて、歴史的に喧傳される所以といふものは、船の形でも、長崎を無視して江戸灣にはいつたといふことでもなくて、浦賀奉行の報告にいふ「殺氣面に顯はれ、心中是非本願の趣意貫きたき心底」といふ、アメリカの意圖内容にあつたわけである。それは禁制の江戸灣へのこのこやつてきて追ひもどされた六十噸のイギリス商船「ブラザース號」とも、通商嘆願にちかいロシヤのラクスマンやレザノフらの遣日使節ともちがひ、「パレムバン」の「開國勸告」ともちがふ。それこそ傳統も法規も無視したところの、武力による「通商要求」であつたわけである。
 まつたく祖國日本にとつて重大な危機であつた。このへんの詳細ないきさつは、既に專門家の澤山の書物があつて、殊に複雜な當時の國内事情などについては、私らの出る幕ではあるまい。間違ひのないところだけいふと、浦賀奉行の報告によつて、直ちに老中、三奉行、大小目付に至るまで召集されて、非常の會議が開かれたが、五日に至るも議決せず、將軍家慶は病あつく、閣老阿部も「憂悶措く能はず」、つひに書を水戸齊昭におくつて意見を叩き「限るに六日登營の刻を以てした」といふ。それが五日午後のことだから火急の程察しられよう。副將軍齊昭の強硬な對外態度はもちろん明らかなところであるが、七日夕刻には伊勢守が齊昭を駒込の邸に訪れてゐる。記録によると、このとき「齊昭も胸襟をひらいて所見を陳べ――かの軍艦四隻分捕等の如き――も、伊勢守の説明によつて、實行不可能な事を悟つたものの如くであつた」といふから、ざんねんながら、當時のわが海軍知識ないしは海邊武備の程も想像できるであらう。
 幕府はやむなく和平方針に決した。六月九日には、ペルリは彼の蒸汽軍艦から發射する禮砲におくられて、浦賀港に上陸した。そして四百名の武裝陸戰隊に護られながら、急設された應接所にはいつて、浦賀奉行戸田伊豆守と會見、大統領親翰を手交した。十日には、軍艦四隻が江戸灣内にすすんで觀音岬に達し、着彈距離を測るなどの威嚇をみせて、十二日に、やうやく日本から退帆した。
 もちろん大統領親翰及びペルリの「上奏文」といふのは、一は捕鯨船その他アメリカ漂民に對する日本の取扱方改善、二は通商で、來年再渡來するまでに返辭をしてくれといふことである。このとき戸田伊豆守がペルリに讀みきかせた幕府の諭書は内容が微妙であるばかりでなく、從來のそれに比べると至つて平假名の多いハイカラなものになつてゐる。「――此所は外國と應接の地にあらす、長崎におもむくへきのよし、いく度も諭すといへとも、使命を恥しめ、一分立かたき旨、存きり申立るのおもむき、使節に於ては、やむを得さることなれとも、我國法もまたやふりかたし、このたひは使節の苦勞を察し、まけて書翰を受とるといへとも、應接の地にあらされは、應答のことにおよはす、このおもむき會得いたし、使命を全くし、すみやかに歸帆あるへきなり」といふのであるが、前に述べたやうに異國船渡來の歴史にみて、とにかく長崎、松前以外で國書を受取つたことは確かに異例であるにちがひない。
 第一囘の黒船來航はほんの十日間ばかりであつたが、豫想されるペルリの再渡來をめぐつて、幕閣でも、議論はいろいろわかれた。水戸齊昭は阿部へむかつて、「千騎が一騎に相成共」夷狄打拂の大號令を天下に示せと云つた。海防係の筒井肥前守や川路左衞門尉は「凡そ外國と戰端を開く時は、短日月に終結を見る事能はざるを例とす。されば大小砲彈藥を要する事莫大――故に今急に大號令案を發布するは策を得たるものにあらず」と云ひ、「水戸老公の――趣意については――一同に於ても異存毫もなし、唯二百年以來の昇平、特に水戰とては經驗なきところ、今戰端を開くとも必勝の見込なし」と云つた。また江川太郎左衞門は「御備へ――如何にも御手薄ゆえ、俗に申すぶらかすと云ふ如く、五年も十年も願書を齋せるともなく、斷るともなくいたし、其中此方御手當此度こそ嚴重に致し、其上にて御斷りに相成可然」といふ「ぶらかし案」を發議した。その結果名宰相伊勢守は「和戰」といふ、和して戰ふといふ特別な號令を出した。
 これらは當時の幕閣事情について語る今日の歴史家のすべてが、骨子に用ひるほどの記録である。そしてこれだけの記録からでも、次のやうなことがわかる。第一にわが
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