海の日本が蒸汽軍艦と砲身のながい大砲で脅やかされてゐること、第二に當時のわが日本はいかにも「御武備御手薄」であつたこと、第三に國威を第一に考へる點では齊昭も川路も江川も勿論一致してゐるが、方法の點ではちがひがあること、第四に川路、江川らは「ぶらかし」てゐる隙にペルリに對抗し得るだけの近代的武備を完了してしまはうといふこと等である。そこで今日の私らが考へることは、「ぶらかし」てゐるうちに、ごく短時日のうちに、ペルリを打ち破るほどの蒸汽軍艦や近代的な大砲やがすぐ出來ると、江川たちは考へてゐただらうか? また「ぶらかし」が五年も十年も出來ると考へてゐただらうか? それを明瞭に示した記録は今日のこつてゐないやうだ。
水戸齊昭も「――ぶらかし候儀、しかと御見留有之、出來候儀に候はば其儀存意無之、異船來れば大騷ぎ致し、歸り候へば御備向忘れ候事無之候はば、ぶらかすも時にとりての御計策――無已候」と云つてゐるが、齊昭とても、「ぶらかし」に充分の信用をおいてはゐないのがわかる。つまりこれらの記録の背後には、「開國」して國威を伸張せんとする意見と、さうでない方法で國威を伸張せんとする意見の相違が微妙に潛んでゐる。これよりちやうど十年前、弘化元年に「パレムバン」が來航したとき、閣老水野越前守は「慶長、元和の規模に復り、進んで外に國威を張り、内に士氣を鼓舞せん」と主張して、つひに敗れたが、この開國的主張は、その後益々頻繁になる異國船の渡來、海外文明の伸展の模樣、一方國内では封建經濟その他の逼迫等で、幕閣内でもしだいに成長してゐたのかも知れぬ。これは外國人の記録だから信用できぬとしても、他山の石として參考にするならば、同じ嘉永六年の七月に長崎に來航したロシヤ遣日使節の祕書ゴンチヤロフは「日本渡航記」のうちにかう書いてゐる。
「――誰だつたか通詞のうちで、レザノフの來た時には、日本の閣老七八人のうちで、外國の交易に贊成したのはたつた二人にすぎなかつたが、今度はたつた二人が反對してゐるに過ぎない、と口を辷らしたものがあつた。――」
レザノフが來航したとき幕閣に開國主張者があつたかどうか記録を知らないが、それは文化元年で五十年も以前のことである。或は水野越前に魁けする者があつたかも知れぬ。
とにかく「外へ進んで國威を張り」「海外の文明をわがものとせん」といふほどの、ごく廣い意味での「開國」意見は、幕閣のみならず當時の志ある人々の間にはひろがつてゐたやうである。「開國」といふ言葉も、當時の政治的場面でつかはれるときはなかなか面倒であつて、專門家でさへ容易には是非を論じがたいところだらうが、ごくひろい意味での「開國」ないし海外に對する關心は、相當つよかつたにちがひなく、それは前に述べたスパンベルグ以來百餘年に亙るかずかずの異國船渡來が與へた影響だけでも、相當つよいものとなつてゐたと思はれる。しかも「開國」の端緒が「黒船來航」といふ形ではじまつたことは、それ自體歴史的であるが、いづれにしろわが國にとつて一つの危機であり、複雜な波紋を與へる緊急重大事件であつた。
このとき昌造はちやうど三十歳である。「蘭話通辯」を印刷した翌年、「活字版摺立係」を任命される二年前であつた。通詞といふ職掌からしても、「ペルリの來航」はかくべつのシヨツクを與へたにちがひないが、そのときの彼の感想なり、考へなりを判斷しうるやうな記録は、彼自身としては、何一つのこしてゐない。
「ペルリの來航」をべつにしていへば、三谷氏は、昌造を「開國論者」だと云つてゐる。「詳傳」のなかで「急激な、然も穩健な開國論者」だと書いてゐる。「本木昌造先生は、佐幕黨にはあらざるも、然し痛烈な開國論者であつたために、一時は鎖國論者の非常な的となられ、結局開國論者側からは――佐幕黨なりとの誤解を受け――當時長崎に本木昌造先生を刺さんと、それらの志士が頻りに出入して居たために、身の危險を慮り、京洛に上り、一時某公卿に身を寄せてゐられたこともある――。」この文章には長崎での云ひつたへをそのまま書いたやうなふしもあるが、「急激な、然も穩健な開國論者」といふのは面白い。昌造は尊皇、佐幕いづれの側からも誤解され、容れられなかつたらしい。これから彼の事蹟をみてゆくところだけれど、一と口にいへば、彼は「開國論をしない開國論者」であり、尊皇開國主義を一科學者としての半面だけで生きとほしたやうな人間だつたから、このときの感想も自から輪廓だけは想像できよう。
通詞の階級としては、「小通詞過人」で、小通詞のうちで上席であつた。十五歳のとき稽古通詞となつて以來十五年、まづは順當の出世で、この頃までは養父昌左衞門が大通詞目付といふ、通詞のうちで最高の職にゐたから、殆んど世襲制の通詞として、彼の前途は約束されたものだつた。しかもこの年はじめ
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