あるが、海外貿易は個人として許されなかつた當時の事情からしてこの文章のごとく理解するは誤りであらう。とにかく右のやうな長崎奉行の建白によつて阿部伊勢守は同年八月これを採用した。長崎奉行は昌造に活字版摺立係を任命して、海岸に面した西役所内に印刷工場を設けた。なほこのとき西役所内にあつて西洋の印刷技術を傳へ指導した人に、和蘭人インデルモウルがあつたと記録してある。
安政三年六月には和蘭文法書「セインタキシス」五百二十八部が印刷發行されて、一部は幕府天文方に納本され、他は一部につき金二歩にて長崎會所より一般に賣り出された。翌四年には「英文典初歩」が印刷發行、文久元年には印刷工場を出島の商館内に移し、シーボルト著の「Open Brieven uit Japan」、翌二年にはポンペ・フアン・メルデルフオールト著の「gencesmiddelleer」などが出版された。これらの書物は寫眞でみても全然日本活字のはいつてゐない洋書である。つまり日本でつくられた外國書物である。シーボルトのいはゆる「出島版」も、ポンペの醫學書も當時としてはなかなか立派な印刷であるが、さてこれらの日本製洋書に日本の活字が一本もはいつてゐないといふことは、昌造の「流し込み活字」が未だ非常に粗末であつて「プレス印刷」に堪へないか、本格的な文法書には使用し得ない程僅少であるからであつたらう。
インデルモウルなる人物が專門の活版技師であるかどうか私は知ることが出來ない。しかしこの活版技師は電胎法による活字鑄造はまつたく行はなかつたやうである。それはこの長崎奉行所の印刷工場が活字の凡てを和蘭から補給せねばならぬため採算上廢絶するに至つたといふ事情でも明らかであるが、活版技師ともあらうものが比較的容易な洋活字の再鑄をも行はなかつたといふことはをかしい。たぶん若干の知識經驗があるといふ程度ではなかつたらうか? したがつて摺立係として密接な關係を持つた筈の昌造も、この和蘭人から學ぶところは大したものではなかつたらうと想像される。この長崎奉行所印刷工場が日本の印刷術に與へた功績の若干は、主としてその「プレス式印刷」の實際であつたらう。「印刷文明史」が傳へるところでは、「民間にありても漸く洋式活版術が行はるることとなり、洋字、漢字、假名の混淆した書册が刊行さるることとなつた。安政六年鹽田幸八の發行したる「最新日英通俗成語集」や、萬延元年増永文治發行の「蕃語小引」等は民間活字版の系統に屬する」ものださうであるが、これらの書物の漢字、假名が、木活字ないし木版であつたことは云ふまでもない。つまり從來の「ばれん[#「ばれん」に傍点]」刷りを「プレス」刷りにしただけであつて、そのプレス式印刷も長崎の小範圍から遠くは出なかつたやうである。
しかしそれにしても私らは二百數十年前、この同じ長崎の地から追放された西洋印刷術を思ひ出すとき感慨新たなるものがあるだらう。「きりしたん」と共にそれを逐つた同じ幕府が、今やふたたび迎入れねばならなかつた。「日本製洋書」は「需要著しきも供給不充分」として再製されねばならなかつた。シーボルトの「出島版」は長崎を訪れる志ある日本青年のみならず、江戸の學生たちにも珍重され、ポンペの醫術書は、長崎市大徳寺内につくられた幕府公認の學校「精得館」の生徒たちのために教科書とならねばならなかつた。
日本製の洋書。アルハベツトにはじまつた「江戸の活字」。當時の學生が大福帳型の教科書の洋活字の一方に筆で和解して日本文字を書きこんでいつた事實をおもふとき、それが傳説めくほど微少ではあつても、昌造の日本文字片假名の「流し込み活字」の重要さと歴史性がわかるやうである。
長崎奉行所の印刷所は日本の近代印刷術の歴史に魁けたもので、「プレス印刷」はこのときからわづかながら傳統をつくつたのであるが、何故幕府は「日本製洋書」をつくつてでも、一刻も早くヨーロツパ文明をわがものとし、文武いづれの面にも備へなければならなかつたらうか。それは云ふまでもなく「嘉永の黒船」から「安政の開港」へとつづく、まことに急迫した時の政治事情がそれであつた。
三
「――異船々中の形勢、人氣の樣子、非常の態を備へ、應接の將官は勿論、一座居合せの異人共殺氣面に顯はれ、心中是非本願の趣意貫きたき心底と察したり。旁々浦賀の御武備も御手薄につき、彼の武威に壓せられて國書御受取あらば、御國辱とも相成るべく、依つてなるべく平穩の御取計あるより他なし――」。嘉永六年六月三日(西暦では一八五三年七月八日)、アメリカ軍艦四隻について浦賀奉行戸田伊豆守が、閣老阿部伊勢守へ報告した一節であるが、このへん繰り返し讀むと、當時幕閣の複雜な對外事情がわかるやうで、なかなか苦心の文章である。
アメリカの蒸汽軍艦が、わが江戸灣に出
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