し、いま一つ加へて江戸の嘉平が白晝灯をともした室で、人目を忍んで研究せねばならなかつたやうな事情は、通詞の場合若干の役得はあつても、決してゆるがせだつたわけでもあるまい。
 とにかく、今日から想像すれば異常に困難な空氣のなかで、何程かの活字がつくられ、「蘭話通辯」の幾册かが印刷され、「蘭話通辯」は和蘭本國にもおくられ、數年後昌造は日本文字の種書を和蘭におくる動機ともなつたとは印刷歴史家の傳へるところであるが、ところで昌造が最初につくつた日本文字は何であつたらうか? 當時の活字は殘つてをらず、「蘭話通辯」もいまは見ることが出來ない。もちろん圖書館にもなく、長崎にすら現存しないといふ。したがつていま私がたよりにする唯一のものは、三谷氏が「詳傳」のうちで「蘭話通辯」の所在についてたしかめ得た、次のやうな、嘗てそれを見た人々の答へだけである。
 古賀十二郎氏
 ――「蘭話通辯」とは本木昌造が、和蘭から取寄せた活字を左の方にならべ、自分の造つた片假名文字を右に並べて、蘭語を譯したもので、紙は仙花を用ひ、表紙は黒い紙であつたか、布であつたかは判然と記憶にないが、兎に角黒い表紙で、百頁位な、美濃四ツ折の誠に杜撰な本である。
 福島惠次郎氏(長崎共益館書店主)
 ――「蘭話通辯」は四五年前、めづらしく二册手に入りましたが、何人かに賣りました。――本の形は黒表紙で、中身は英語の活字と日本の片假名活字とで印刷した百頁程のうすい、美濃四ツ折くらゐな本でした。
 小西清七郎氏(東京菊坂町書店主)
 ――「蘭話通辯」は二三年前に店にありましたが、今はありません。確かに二圓六十錢で賣つたと記憶してゐます。本の形は美濃四ツ折で、粗末な活字と片假名の混合した内容でした。
 早稻田米次郎氏(長崎古道具店主)
 ――「蘭話通辯」は黒い表紙で、今でいふ四六判ですな。中身は昔の帳面につかふ紙で、外國の字と日本のきたない片假名字で、粗末な本です。四五年前に一册誰かに賣りました。(――其他略)
 三谷氏のこの調査は昭和七年九月である。ちやうど十年前のことだから、三谷氏の文章を信ずる限り、以上の人々の多くが現存するだらう。そして更に以上の人々の言を信ずる限り、この日本で一ばん最初に「流し込み活字」でつくられた貴重な書物は、まだ日本のどこかに現存してゐるのであらう。「黒い表紙」の「美濃四ツ折」の、きたない本は、日本のどつかで蟲に喰はれつつ存在してゐるのだらう。
 そして以上の人々の言葉が一致するところにみれば、昌造が最初につくつた活字は「片假名」だといふことである。木村嘉平は島津齊彬の命によつて、最初に二十六の外國文字を作つた。昌造は自分の創意で五十音片假名を作つた。「蘭話通辯」の印刷が何によつたかは活字以上に明らかでないが、のち長崎奉行所が印刷所を設けたとき「プレスによる印刷法長崎に擴まる」とあるから、このとき二十八歳の青年昌造は輸入のアルハベツトに片假名の活字をならべて、ひとりでばれん[#「ばれん」に傍点]でこすつたのであらう。そしてひとりで紙を切つたり、製本したりして、ひそかに知己の人々に「黒い表紙」の本をくばつたのだらう。
「蘭話通辯」はやや傳説めいてさへゐる。彼の片假名活字は「きたない」ものだつた。しかし昌造だつて科學未發達のその時代に、日本活字を創造してゆくどんな手がかりがあつたらう? 歴史といふものに奇蹟はないといふ。グウテンベルグの場合、活字考案に指輪があつたやうに、印刷機の考案にはドイツ、ライン地方の葡萄酒釀造につかふ壓搾機がヒントとなつたもので、今日手引印刷機を「プレス」と稱ぶのも、そこに發してゐると謂はれる。萬をもつて數へる漢字の字母は、そして畫の複雜な漢字體は、「流し込み」技術の範圍では容易に克服し難かつたらう。嘗て「植字判一式」購入當時の同志、北村此助も、品川藤兵衞も、楢林定一郎も、いつかこの活字の歴史からは消えていつた。
 しかし「蘭話通辯」から三年めの安政二年になつて、昌造らの購入活字は、それ自身として一つの記録を編んだわけであつた。同年六月、長崎奉行荒尾岩見守は老中阿部伊勢守へ「阿蘭陀活字版蘭書摺立方建白書」といふものを提出した。「一、近年洋書の需要著しきも、供給不充分なる事。二、阿蘭陀通詞は別して家學に出精熱心に研究するも、遺憾ながら蘭書拂底のため修行十分に屆き兼ねる事。三、先年紅毛人の持來りし活字版を、先勤長崎奉行の許可を得て、蘭通詞共引受所持せるを、このたび會所銀をもつて買上げ、此節奉行所に於て摺立方試み、長崎會所に於て一般志願者へ賣渡せば世上便利なる事」等といふのが建白書の内容である。
「紅毛人持來りし活字版」云々は、昌造ら註文の活字版のことである。この文章でみれば、例の「植字判一式」は偶然渡來したものを昌造らが引受け買取つたごとくで
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