利は一時ポーロの書物をもつて埋めらるるが如き流行」と形容してゐるが、十三世紀末の當時は寫本だからたかが知れてゐる。「東方見聞録」がヨーロツパぢゆうを席捲して「日本は大洋の東方にある島國にして――黄金は無盡藏なり」といふポーロの法螺が西半球の人間たちを昂奮せしめたのは、それより一世紀半ものち、カスタルヂーの木活字、コステルやグウテンベルグの鉛の活字が出來、「東方見聞録」が活版書物になつて以後、一四七、八〇年頃からのことである。
 考へてみれば、東洋の木版は西洋にいつて金になり、五世紀めに日本へもどつてきたわけであつた。そして木から金になつた理由の第一は、ヨーロツパの文字が簡單だからにちがひない。グウテンベルグはマインツの貴族で、指輪をあつかひ鏡を磨く商人だつた。指輪の彫刻や鑄型による流しこみは、この時代既に發達してゐたのだから、彼のヒントはそこにあるだらうと、今日の印刷歴史家たちは判斷してゐる。
 西洋でも、電胎法による近代活字の字母製造は十九世紀にはいつてからだ。電氣分解法、いはゆる「フアラデーの法則」が確立されなければ出來ない藝當である。したがつてグウテンベルグ以來四世紀、「流し込み法」による活字製法は、つまりアルハベツトが二十六だといふこと、漢字のやうに字畫が複雜でないことが原因の第一だといふことになる。したがつて、たとへば慶長年間に、「きりしたん活字」がそのまま長崎にとどまつたとしても、どれくらゐ發達しただらう?
 私は思ふのだが、同じ和蘭からレムブラントなどの銅版術が、司馬江漢を通じて渡來したのは天明三年だつた。一七八三年で、昌造の「植字判一式」購入に先だつ六十年餘である。そして日本の銅版術は江漢以來、亞歐堂田善などがでて、すくすくと成長したが、昌造らの「流し込み活字」は、彼の苦心にもかかはらず、なほ二十年餘を經なければならなかつた。思へば、西洋印刷術の渡來は、遲過ぎるやうな、また早過ぎるやうなものであつた。

      二

 昌造の、最初の「流し込み活字」は「植字判一式」購入より三年後の嘉永四年に一應できた。そして、その「流し込み活字」の日本文字と、輸入の蘭活字とで「蘭話通辯」が印刷されたのだと謂はれてゐる。
「流し込み活字」の製法は、昌造の場合も、ヤンコ・コステルなり、グウテンベルグなりの「手鑄込み器」と同じ方式を逐つたものだと想像できる。つまり、最初ある金屬に凸型に彫刻して種字(パンチ、押字器などとも謂ふ)を作り、それを他の金屬に打ち込んで、凹型の字母を作り、その字母に鉛を流しこんで再び凸型の活字を得るといふやり方であるが、字劃が複雜だつたり、技術が貧困なために、種字を省略して、いきなり凹型の字母を彫刻して、流し込み活字を得ようとした形跡が見える。三谷氏の「詳傳」によれば、大體つぎのやうに説明してある。――二つに割れる抱き合せの鑄型で、中央に活字の大きさだけの穴があいてゐる。鑄型の底には横にねかした凹型、つまり雌型の字母があつて、柄杓で溶かした鉛をすくつて流し込み、冷却を待つて、抱き合せの鑄型を割つてとりだし、活字の底部を鉋で削つて、一定のたかさにそろへる――といふのである。これだけの操作は大してむづかしいことではないが、いつたい字母なるものはどんな金屬であつたらうか。專門家である三谷氏の説明も、このへんは明瞭でない。最初雌型の木活字を字母にしたといふやうに誌してあるけれど、黄楊でも櫻でも、鉛の高温には堪へられぬし、さきに木村嘉平について私らはその失敗を知つてゐるところだ。三谷氏は別の著書「本邦活版開拓者の苦心」のうちで、このとき昌造は水牛の角に彫刻したものを用ひたらうとも書いてゐるが、恐らくこれが眞實に近いであらう。今日帝室博物館に所藏される昌造作の字母は鋼鐵に彫刻したものであるが、それはこのときより數年後、安政年間の作である。長崎の諏訪神社に傳へられるところの「流し込み鑄型」も嘉永年間のものではないと、專門家たちには判斷されてゐて、いづれにしろ、昌造が嘉永年間に用ひた「流し込み活字」の字母のボデイが何であつたかは明らかでない。
 およそ人類科學發展の歴史は、金屬の發見と、その性能の理解にあつたと謂はれる。伊豆の代官江川太郎左衞門が韮山に反射爐をきづいて、攝氏千三百度以上の熱を要する鐵の熔解を試みたのが嘉永三年のことである。古來刀劒類の鐵は、鞴の力で鍛へられたけれど、まだ論理的には充分理解されてゐたわけでない。銅の「吹きわけ法」などもごく自然發生的であつたのだし、鉛活字に必要なアンチモンなども、まだ日本のどつかの山にかくれたままの時代であつた。つまり當時の状態では多くの金屬が未開にあつたし、加へてそれらの金屬は封建制度で流通も圓滑を缺く。昌造など蘭書の知識で若干の理解はあつても、手がとどかぬ憾みがあつたらう
前へ 次へ
全78ページ中39ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング