やうなふしが感じられる。
しかしこの種の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話といふものは、科學精神のある純粹さが、生活と凝結しあつて、偶然な事柄を形づくつたとき、一つの藝術的な普遍さと値打をもつて傳説となるものであるが、それが必ずしもコステルなり昌造なりの、發明の實際を説明してゐるわけではあるまい。和蘭にも、コステル以前に木活字はあつた。しかも、コステルがつくつたといふ確かな鉛活字は、今日一本も殘つてゐない。印刷した書物にもコステルのそれと判斷すべきものがないので、世界の印刷歴史家たちの間では、やはりグウテンベルグに、その榮冠を授けてゐるのだと謂はれるが、しかし十五世紀の始めに出來た和蘭の古書に活字印刷の部分があるといふ事實や、コステルの工場から活字を盜んで逃げた職工が、グウテンベルグの生地ドイツ、マインツに住んだといふ傳説や、グウテンベルグの發明後、近代印刷術が全歐洲を席捲していつた徑路のうちでも、和蘭が別系統であるなどの事實があつて、ヤンコ・コステルは、或は架空の人物かも知れないのに、五世紀後の今日もまだ殺すことの出來ない人物である。今日の印刷歴史家たちは、ヤンコ・コステルといふ人物が和蘭人の創作にちがひないと承知してゐる。しかも和蘭印刷界にのこる幾つかの事實、記録にものこらないあれやこれやが、それをささへて生かしてゐるのであらう。しかもそのコステル傳記が、これは「創作」でない昌造に影響を與へたばかりでなく、東洋日本の一角に近代活字が渡來する始めであつた。
私たちはそれが嘉永の元年で、西暦の一八四八年だといふことを記憶しておかう。そしてこの記憶を前提として、西洋印刷の歴史をさかのぼる四世紀、グウテンベルグの發明が一四五五年で、その以前の西洋の木活字時代といふものが、わづか二三十年しかないといふことを知るだらう。その木活字の創造者はイタリーのカスタルヂーであつた。カスタルヂーは土耳古のある政府につかへて、書寫官であつたが、あるときマルコ・ポーロの支那土産のうちから東洋の木版書物をめつけて、それをヒントに木活字を發明したのだといふ。それが一四二六年だ。つまりグウテンベルグの一四五五年までに二十九年しかない。
これは非常におどろくべきことである。日本では陀羅尼經以來、木版ないし銅版の歴史は千餘年、木活字の歴史は徳川期以來二百餘年、昌造時代ももちろんさうであつた。支那や朝鮮となると木版歴史などもつと古い。それが西洋では木活字時代が二十九年でしかなかつた。そしてマルコ・ポーロの支那土産が木版であることを知つておどろいたカスタルヂーは、木版はつくらずにいきなり木活字をつくつた。これも非常におどろくべきことではないか。ヨーロツパの活字は二十六であつた。木版にするより木活字にした方がはるかに便利だつたのだ。
私達はこの事實を、日本の太閤秀吉の朝鮮土産の銅活字にヒントを得ておこつた木活字が間もなくおとろへて、再び木版にかはつた歴史と思ひあはせてみよう。日本では、徳川も中期になると、出版物は旺んになり、部數も増大したが、さうなると木活字よりも木版の方が却つて便利であつた。第一には木版だと再版が出來る。紙型《ステロ》術のなかつた當時では、木活字は再版のたびに新組みしなくてはならぬ。松平樂翁が「海國兵談」の版木を押收したのは、この事情を物語つてゐるではないか。第二に木版の方がはるかに容易に、しかも美しく印刷できる。ばれん[#「ばれん」に傍点]でこする印刷術は、木活字の部分的な凹凸には不向きである。第三に字劃の複雜な日本文字は磨滅しやすく、しかも萬をはるかに超える文字の種類は、新組のたびに木版を彫るとあまり變らぬほど、澤山新調しなければならなかつたし、新古の木活字は高低がくるひやすかつたにちがひない。つまり、複雜な日本の文字は、逆に木版の世界へ引戻したが、しかし支那の木版書物を見たイタリー人は、いきなり木活字をつくつてしまつた。そしてカスタルヂーが木活字をつくつたやうに、それより二十九年後のドイツ人は、いきなり鉛ボデイの「流し込み活字」をつくつてしまつた。彼等のアルハベツトは二十六である。
ヨーロツパの印刷文明は、支那文明の影響であつた。紙の作り方もヨーロツパに攻めこんだ元の兵隊が傳授したものだ。從つてヨーロツパの古い書物はみな支那式だといふ。私はまだ見たことはないけれど、片面印刷も袋とぢといふ製本もインクが墨汁であることも、みんなその證據だと謂はれる。その支那文化の種子を蒔いたのがポーロであることは周知である。この大旅行家が歸國後※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ニスの艦隊に加はつてゼノアと戰ひ、捕虜となつて獄中で「東方見聞録」を書かされたことも有名な話である。「印刷文明史」は當時を書いて「伊太
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