府への開國勸告使節和蘭の軍艦「パレムバン」が追ひ返されてから五年めで、「長崎通詞本木昌造及び北村此助、品川藤兵衞、楢林定一郎四人相議し、鉛製活字版を和蘭より購入」と、洋學年表に誌されてゐる。「――楢林家記に、銀六貫四百目、蘭書植字判一式、右四人名前にて借請――嘉永元申十二月廿九日御用方へ相納る」といふ附記もある。
銀六貫四百目はわかつても、活字の數量など不明だから、舶來活字の當時の値段はわかりやうがない。活字の種類は現在殘つてゐる「和蘭文典セインタキシス」などからみて大小二種、字形はイタリツクにパイカの二種だつたらうくらゐのことがわかるが、「植字判一式」といふのも内容が明らかでない。今日の言葉でいへば「植字判一式」といふからには印刷機及び印刷機附屬品をふくまずに、つまり活字製版器具だけの意味であるが、この事蹟を「印刷文明史」に據つてみると曖昧である。明記はないが、このとき昌造ら購入の「植字判一式」だけで、それより七年後、幕府の命で長崎奉行所が印刷所を設置したごとくであるからである。
しかし「植字判一式」なるもののうちに印刷機もふくまつてゐたかどうかの詮議は、さほど重要ではない。七年のうちには、幕府は年々はいつてくる和蘭船へ印刷機だけ追加註文も出來たらうし、出島商館には印刷機一臺くらゐは存在したか知れぬから、借入することも出來る。とにかく一日本人の創意によつて近代鉛活字を購入したことと、幕府が印刷所をつくる三四年前に、その購入活字をヒントにして日本文字の「流し込み活字」をつくつたこと、その日本文字の活字によつて「蘭話通辯」一册が印刷されたといふことである。
大和法隆寺の陀羅尼經以來、木版、銅版(陀羅尼經原版は銅版とも謂はれてゐるが)、銅や木の彫刻活字といふ日本の歴史で、嘉永四年の「流し込み鉛活字」はまつたく紀元を劃するほどの魁けであつた。このとき、四人のうち、誰が買入主唱者であつたかも明らかでないが、大槻如電は、「昌造――蘭書を讀み、其の文字の鮮明にして印書術の巧妙なるに感服し、活版印刷の業を起さんとし、同志を募り、公然たる手續を以て蘭字活版を購ひ入れしなり」と書いてゐる。そして購入以來、數年を費して、「流し込み活字」をつくり、「蘭話通辯」を印刷したのは四人でなく、一人昌造だけであつたことも、もちろん疑ふ餘地がない。
また三谷幸吉氏は「本木、平野詳傳」のうちに、昌造が蘭字活字買入の動機を誌して、彼はあるとき和蘭人から和蘭の活字發明者フラウレンス・ヤンコ・コステルの傳記をもらつて讀んだ事實があると誌してゐる。この三谷氏の説がホンの云ひ傳へであるか、確實な資料にもとづいたものであるか、私はそれを判斷する力を持たない。しかしそれがほんの長崎での傳説であつたとしても、甚だ信じ得る事柄ではある。和蘭人フラウレンス・ヤンコ・コステルは、ドイツのグウテンベルグに先だつ約十五年、西暦一四四〇年頃に、鉛活字を創造した世界最初の人だと、和蘭人が海外に誇る人であつたから、當時の日本がヨーロツパぢゆうで唯一の通商國とした和蘭から、通詞といふ職で生來科學に興味をもつ昌造のやうな人間に、コステルの名が傳へられたことは至つて自然であらう。
しかも次のやうな、コステルと昌造の各々がもつ二つの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話は、以上の關係を明らかにするやうで面白い。あるとき、コステルは庭先に落ちてゐる木片をひろつて、手すさびに自分の頭字を浮彫りにしたが、捨ててしまふのも惜しくて、紙にくるんで室の隅に抛つておいた。それからずつとのち、何氣なく手にふれたその紙包をひろげてみたら、木片の文字がハツキリと紙に印刷されてゐるので、非常にびつくりしたといふ話。――
いま一つの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話は、昌造の事蹟のうち今日も有名な語りぐさであるが、あるとき昌造は、購入した蘭活字の少しばかりを鍋で溶かすと、腰の刀をはづして目貫の象嵌にそれを流し込んでみた。やがて鉛が冷却するのを待つて、裏がへしてみると、目貫の象嵌は凹型になつてハツキリと鉛に轉刻されてゐるので、昌造は大聲を發して家人をよんだといふ話――である。
この二つの※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話は、東西を距ててどつかに共通するものがあるばかりでなく、後者は前者にくらべて、もつと意識的であることがわかる。コステルの場合は、偶然な木活字への端緒であるが、昌造の場合は、流し込み活字への豫期がある。しかも後者の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話は、前者の※[#「插」でつくりの縦棒が下に突き抜けている、第4水準2−13−28]話に影響されてゐる
前へ
次へ
全78ページ中37ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング