半世紀を待たねばならなかつたであらうか。その事情はガロウニンが退去してから八年め、文政元年に江戸灣に突如あらはれた英國商船「ブラザース號」船長ゴルドンから、種痘具一式を贈られた馬場佐十郎の答にみることができる。彼の答を要約すると、「結構なる品、有難くは存ずるが、殘念ながら受領できない。それは國法の禁止するところであつて、種痘法は自分が嘗てロシヤ人ガロウニンより口授され、國内にも一應知られてゐるけれど、上役人の許可がないので未だにその效力を實驗することが出來ないでゐる状態だ」と述べてゐる。安政五年に種痘法が實施されたのは「西洋醫學所」の力のみではない。云ひ換へればここにも活字と同じ運命があつたのだ。
さて北方に對する幕府の危惧が去らぬうち、南方では既に「フエートン號事件」が起つてゐた。文化五年でフオストフが北邊を襲撃した翌年である。「海賊」英國はこのとき既に印度洋及び南太平洋において王者の位置を築きつつあつた。一七六三年、わが明和年間にはフランスとの植民競爭にうちかつて印度を奪ひ、一八一一年、わが文化八年には和蘭艦隊を打倒して和蘭東印度會社の根據地ジヤワを陷しいれてゐた。一八一九年、わが文政二年には海峽植民地シンガポールが建設され、一八四三年、わが天保十三年には阿片戰爭を通じて香港島に砲臺が築かれた。「フエートン號事件」はつまり和蘭艦隊打倒後でジヤワ、バタビヤの和蘭政府の實權を掌握、すすんで出先日本長崎の同商館を占領しようとして長崎沖に出現したのである。もちろん目的は商館の占領よりも、日本との通商權利を頬被り的に引繼ぐことにあつて、十九歳の青年艦長ペリウをのせた武裝船が、何故僞りの和蘭國旗をかかげて入港してきたかも、自から明らかだらう。この事件におけるヅーフの策謀、奉行松平圖書をはじめ佐賀藩士數名の引責自害その他、昌造の祖父庄左衞門らの活動などは前に述べた。この事件は、北方のそれよりも影響するところが大きく、幕府は後事に備へるため庄左衞門らに英語の習得を命じたが、日本における英語の歴史はこのときから起原するといふ。
しかも南からよせてくる波は、北のそれよりも急速ではげしかつた。當時の幕閣には薩摩、琉球より南の方についてどれほどの理解が養はれてゐただらうか。新井白石以來、海外の政策や文物に注意する傳統が失はれたとも思へないが、尠くとも表面は長崎奉行まかせであつて、また長崎奉行の目付ともいふべき代々の和蘭甲比丹から具申する海外ニユースをたよりにしてゐた程度であつたと思はれる。そのことはたとへば文化年度以來、ヨーロツパにおける國際關係が複雜になつて、和蘭船として同國國旗を掲げて入港してくる船々には、アメリカ船、デンマーク船、ロシヤ船、ブレーメン船等があつても、實際にこれを知つてゐたのは長崎通詞のみであつたといふことにもあらはれてゐる。
これらは和蘭傭船であつた。しかし傭船ではあつたが、これらの異國船はつねに和蘭國旗を放棄して、單獨の日本通商をしようといふ謀反心を抱いてゐたのである。殊に新興のアメリカ船にそれがつよくて、アメリカ船「エリザ號」などは二度めは和蘭國旗を掲げず入港しようとして追ひ返され、三度びそれを企てて三度び追放され、つひにフイリツピン沖合で難破、再び起てなかつたといふ。そしてこれは和蘭傭船ではないが、文政元年五月、異國船が突如江戸灣に出現して江戸の役人たちをおどろかせた。それはイギリス商船「ブラザース號」で、しかも六十五噸の小帆船であつた。恐らくお膝元江戸灣に乘りこんだ最初の船であらうが、まつたく「突拍子もない船」である。本國の政治的意圖ももたない私船で、長崎を無視してのこのこと江戸へやつてきたこの船は、日本の許可を得て貿易をしたいと臆面もなく申立てたところに、異國船渡來の歴史にみて劃時代的な意味をもつものと私は考へる。
もちろん「ブラザース號」は追ひ返された。そしてこの六十五噸の小帆船の處置について老中をはじめとする役々の動きの記録が殘されたが、ゴルドン船長の方でもおどろいて早々に引揚げた。しかしこのとき浦賀に碇泊したわづか一晝夜のうちに「雜貨類の交易に熱心」な附近の百姓町人たちは「ブラザース號」の甲板に充滿し、船の周圍をとりまく者を加へれば二千を超えたと記録してある。
「突拍子もない船」はしだいにふえた。文政年間から天保年間へかけてアメリカ、イギリスの捕鯨船で日本海岸に漂着するものだけでも「數知れず」であつた。前記したやうに文化の末から文政へかけては、アメリカ漁夫たちが大西洋から太平洋に河岸をかへた時期である。しかも未開の太平洋に鯨を逐うてくるものはアメリカ漁夫のみに限らない。弘化三年になると、フランス軍艦「クレオパトラ」が長崎港外に訪れて、日本への交誼をもとめてゐる申出のうちに、「フランス捕鯨船で漂着するも
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