この歴史の大きな矛盾を簡單に説明する言葉を知らないのである。
四
砲數門を備へた露米會社軍艦「ユノ」「アウオス」の二隻は、同社勤務海軍大尉フオストフ、同少尉ダヴイドフに率ゐられて、わが北邊を再度にわたつて襲撃した。文化三年十月、樺太大泊に兵三十名をもつて上陸、松前運上屋を襲撃、日本人四名を捕虜とした。翌年五月は千島列島を南下、エトロフ島に上陸して松前會所を襲撃して日本人五名を捕へた。松前藩は南部、津輕兩藩兵二百數十をもつて急行應戰したが、兵器に時代の差があつて敗戰、松前藩吏戸田又太夫は責を負うて切腹したと記録は傳へてゐる。
北邊の備へは愈々嚴でなければならなかつた。ところがフオストフ大尉に一片の命令を與へて雲がくれしたレザノフは、フオストフらが最初の遠征中、既にアラスカの寒地で死亡してゐた。しかもフオストフらはオホツク港に凱旋するや、本國の訓令に基かない行動をとつたものとして、オホツク長官の手で逮捕、投獄されてしまつたのであるが、かういふ機微な事情を、松前藩でも知るわけがなかつた。
ガロウニン事件はかくして生れた。フオストフらが投獄された翌文化八年、海軍少佐ガロウニンは本國の訓令によつて、千島及び沿海州海岸の測量中、六月エトロフにつきて薪水補給をもとめたが、松前配下石坂武兵衞の誘導にかかつて、彼以下六名が捕へられてしまつた。松前に護送され、文化十年九月まで獄中にあり、今日傳る「日本幽囚記」は、このときのガロウニンの手記であつた。これを一方からいふと文字と言葉の不通が媒ちしたものでもあるが、この悲劇はガロウニンから幕府天文方馬場佐十郎、足立左内らを通じて、ロシヤ語が日本に傳へられる機縁となつたし、嘉永年間の渡來に先だつて、種痘法がはじめて日本人の知識となる機縁ともなつた。
そしてガロウニンが釋放されるためには、つまりガロウニン少佐とフオストフ事件とは無關係だといふことを明らかにするためには、更にいま一つの「高田屋嘉兵衞事件」が生れなければならなかつた。文化九年八月、北方千島の航路を開拓しつつあつた嘉兵衞の觀世丸は、ガロウニンの同僚リコルヅ少佐の「デイヤナ號」に抑留されてカムチヤツカへ連行された。しかし嘉兵衞は歴史が傳へるやうに相手方の眞意を把握しうる程の人物だつたので、翌年四月まだ鎖された海氷を割りながら、新たにオホツク長官代理に任命され、ガロウニンとフオストフとは關係ないといふ釋明書を携へたリコルヅ少佐を伴つて、國後島へ歸還した。そこでオホツク長官代理は日本の要求に應じて、フオストフ事件の謝罪始末書を提出し、ガロウニン以下は釋放、レザノフ以來の紛擾が解決したわけである。
嘉兵衞の努力は日露國交の危機を救ひ、あはせて日本人の面目を海外に顯揚したのであるが、レザノフは死んでもロシヤ側の日本の門戸をたたく熱意はかはらなかつた。リコルヅのオホツク長官代理を任命されたのは、ガロウニンの身柄を釋放するに必要でもあつたが、同時に「通商」と「國境協定」のための談判を開始する資格の必要からでもあつたといふ。リコルヅと松前奉行服部備後守との會見によつてロシヤ側の希望は江戸へ申送られ、囘答は翌文化十一年エトロフにおいてなすべきことが約された。幕閣の囘答は嘗て長崎においてレザノフに示されたと同樣であつたが、しかし翌年、日、露、蘭の三國語に認められた文書を松前藩高橋三平が携行、エトロフ、シヤナに赴くと、ロシヤの船は會見の場所に來なかつたのである。するとそれより四年後文政元年になつて同藩飯田五郎作なる者が、エトロフ海岸で偶然拾つた筐のなかにロシヤ官憲の文書がはいつてゐて、約定のとほり文化十一年同島北部に來着したけれど、日本の役人をみることが出來ないから、やむなくオホツクに歸航するといふ意味が認めてあつたといふ。
歴史はときに蒼茫としてみえる。時間と空間をこえて、あるときは近くなり、また遠くなる。ガロウニン事件、嘉兵衞事件が終つて、またプーチヤチン提督が四隻の軍艦を率ゐて長崎沖に出現するまで、約半世紀が經つ。しかも日露國境問題も未解決のままであり、ロシヤは北邊の門戸をひらくことが出來なかつたが、この因縁は絶えたわけでなく、半世紀後、本木昌造が「長崎談判」「下田談判」に通詞として活動する運命も、かうした因縁につながつてゐるわけであつた。
北邊を襲つた波は、それで一旦かへしていつたが、波のあとに殘つたものに「ロシヤ語」があり「種痘法」があつた。ロシヤ語はこのとき以來幕府天文方において一つの座席をもつやうになつたし、「種痘法」は一部ではあつたが日本人の知識のうちに加へられた。馬場佐十郎がガロウニンから口授されたもので、嘉永二年の痘苗の渡來に先だつ四十年である。しかもこの種痘法は何故實施されず、正確には安政五年に「種痘館」が出來るまで
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