たのである。平和な第二囘遣日使節としての彼の任務を妨害した大きな原因の一つが和蘭商館にあることを、蜀山人に俟つまでもなく承知してゐた。一説によると彼は長崎碇泊中、長崎通詞らをとほして得た知識によつて、佐幕派に對立する勤皇派に味方することで、日本通商の利を得んとしたものとも謂はれる。いかにも皮相な見解だつたとしても、家康の御朱印状以來特惠國として、事毎に「將軍政治」を謳歌するオランダに反感をもつ以上、或は自然な成行だともいへる。レザノフはひたすら戰艦を建造し兵員を募つた。そして若しかレザノフの計畫にロシヤ政府が全的承認を與へたならば、わが國内事情は一應措くとして、われら日本人は祖國を護るために相當の犧牲を拂はねばならなかつただらう。
 しかしレザノフの計畫は、後にみるやうにエカテリイナ女皇についで即位したアレクサンドル一世が承認を與へなかつたために龍頭蛇尾に終つたが、レザノフ一個は簡單に計畫を放棄することが出來ないで、文化四年(一八〇七年)のフオストフ事件となり、日露國交史上最大の暗い頁となつた。フオストフ事件はついでガロウニン事件を産みガロウニン事件はまた高田屋嘉兵衞事件を産んだのである。
 史家たちは今日も、ロシヤ政府がレザノフの計畫に承認を與へなかつた事情、また不承認を知りながら計畫をすすめ、しかも遠征出發の直前になつて、雲がくれして行衞不明となつたレザノフの曖昧な行動について、決定的な判斷を與へることが出來ないでゐる。そこで私は私なりに考へるのだが、尠くともこのレザノフの曖昧な行動に、ロシヤ政府と露米會社の關係が物語られてゐる氣がするのだ。つまり英、蘭等よりも遲れて資本主義化しつつあつたロシヤ政府の出店、露米會社の性格があるのではないか。ピヨトル大帝以來の對日方針はまだ生きてゐて、イギリス政府とイギリス東印度會社の關係のやうにはてきぱきとゆかぬのではないか。しかもレザノフとしてみれば、十九世紀初頭以來露米會社獨占の北氷洋毛皮業は、向ふみずなヤンキーたちによつて急速に侵蝕されつつあつたし、千島列島を南下する植民政策も、却つて人口稠密な日本側からの移住者によつて壓倒されてゐた。しかし彼は、露米會社二代目支配者として、ヨーロツパにある株主のためにも局面を打開しなければならなかつたのである。オホツクから澳門への最短航路を拓くこと、「鎖されたる國」の扉をむりにでもこじ開けねばならなかつたのである。
 露米會社は一七八三年、レザノフの舅シエリコフによつて創立されたが、オホツクからカムチヤツカ、ベーリング海峽をこえてアラスカ北端に至る、つまり北極圈にちかい陸地では人類生存以來の出來事だと謂はれる。土人たちは武力によつて征服され、毛皮税を課されたが、一方からいふとはじめて文字を學び、近代武器や文明品を知り、一と口にいへばヨーロツパの基督教文化に浴したわけであつた。露米會社は初期においては隆盛をきはめ、一七九八年、寛政九年、北邊事情が子平、平助らによつて漸く日本人の間に注意を惹きつつあつた當時、露米會社の株券はヨーロツパにおいて三十五割方騰貴してゐたといふ。レザノフは露米會社支配人であると同時に、エカテリイナ女皇の侍從であり、露米會社は沿海州からアラスカに至る毛皮業はもちろん、植民、開拓の權限を持ち、必要な軍事施設、軍艦の建造、兵員の養成、士官の任免等、殆んど一個の政府にちかい權能を持つてゐた。
 考へてみると、わが江戸時代、南から北から、鎖國の夢をゆすぶり脅やかしたものは、いくつかの會社であつた。殊にオランダ東印度會社、イギリス東印度會社及び露米會社の三つであつた。オランダ東印度會社はジヤワ、バタビヤに根據をおいた。イギリス東印度會社は印度とシンガポールに根據をおいた。露米會社はオホツクに根據をおいた。前二者は十七世紀初頭、秀吉時代に既に東漸しはじめてゐたのである。そしてどの會社もその本國政府に許されて、貿易、植民、産業開發、軍事に及ぶ同じやうな權能をもつて、互ひに相爭ひあつてゐた。葡の、西の、佛のそれらを考へると、それは間斷ない侵略と戰爭の連續であることを歴史は教へてゐる。
 しかしまたそれは同時に近代文化・ヨーロツパ文明の放散でもあつた。ジヨホール王から掠めとつてシンガポールを建設したラツフルズはイギリス第一の東洋通であり學者であつた。オランダ國旗を唯一つ日本長崎で護り通し祖國の歴史を辱しめなかつた甲比丹ヅーフは、日本へ對するヨーロツパの理解を深めた第一の人であり、同じく日蘭貿易關係を改善して東洋におけるオランダの位置を強化したシーボルトはまた日本にとつて近代醫學の光を與へた人であり、ロシヤの版圖を北極圈まで伸張したシエリコフは、學校を建て文字と算術を教へ近代政治を與へて、カムチヤツカやアラスカ土人に不朽の光を與へた人であつた。私は
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