」になつただけであると云つてゐる。
このときは江戸から目付遠山金四郎が下向してきて趣きをレザノフに傳へたが、日本側の意志は出島の和蘭商館長ヅーフの策謀によつて、より冷たく誇大してロシヤ側に傳へられる、つまり「和蘭の妨害」もあつて、このときのことを長崎人蜀山人太田直二郎は「瓊浦雜綴」に次のやうに書き誌した。「――ヲランダの甲比丹、此度魯西亞出帆の翌々日、ヲランダ通詞共を招き、ヲランダ人はヲランダ料理、日本人は日本料理にて大饗せしといふ。八ツ時まで物くひ、酒のみ、歌うたひ、裸になりて騷ぎしなり。是はロシヤ交易の御免なきを悦びて祝の心とぞみえたり――」。
それに「長崎」は「松前」とはちがつてゐた。ここは日本の玄關の一つで文化の傳統があつた。蜀山人が和蘭の妨害について誌したやうに、日本版畫の鼻祖司馬江漢も「春波樓筆記」のうちに誌した。「――魯西亞の使者を半年長崎に留めて上陸も許さず――魯西亞は北方の邊地不毛の土にして下國なりと雖も、大國にして屬國も亦多し、一概に夷狄の振舞非禮ならずや。レザノツトは彼の國の使者なり。――夫禮は人道教示の肇とす、之を譬へば、位官正しきに裸になりて立つが如し――」云々と。
しかし聖明を蔽ひ奉る幕閣の「鎖國的」戀着は、まだまだ強固なものがあつたので、「和蘭の妨害」などは大したものでなかつたらう。そして半年後に失望のうちに長崎を退帆したニコライ・レザノフは、幕閣も、蜀山人も、司馬江漢も、想像できぬやうな決心を抱いてゐたのである。彼は一旦ペトロポウロスクまで引揚げ、解散すると、使節から早變りして露米會社重役となつて、單身アラスカへ旅立つた。そこで露米會社の全能力を擧げて艦船の建造、兵員の訓練をはじめ、文化二年七月の日付で本國政府へ上奏文を奉り、「日本遠征」の計畫を明らかにしたといふ。まづ樺太島を襲つて日本人を追放し、蝦夷本島を破壞し、さらに日本本土の沿岸にも出動して、日本帆船を拿捕しようといふ計畫で、このことは既に長崎退帆の歸途、一行の海軍大佐フオン・クルーゼンステルンが、沿岸の要衝を密かに測量したりして、海岸防備の脆弱を探査したといふことであつた。そして若しロシヤ本國政府がレザノフの計畫に同意を與へて、順調に進んだとするならば、そしてまたレザノフやフオン・クルーゼンステルンが觀察したやうに、わが日本人が弱かつたならば、英國が支那に對して阿片戰爭によつて香港を開放せしめたやうな事態が支那よりも一時代早く起つたか知れない。
もちろんそれはレザノフの誤りであつた。日本と支那はちがふ。日本の國柄は支那とちがふし、後年シーボルトが觀察したやうに、人種血族的にも經濟的にもちがつてゐる。「――二百年の泰平庇蔭にて、日本國民の文明開化はその高潮に達して、今やわが歐羅巴を除きては、古世界中の最も進歩せるものとなれることは何人も爭ふやうなし」「英國が最近時支那につきて施爲したる處置は日本にては成すべからず、日支兩國の差別は、國民といひ、國家といひ、貿易的産物といひ、通商關係といひ、その差別は歐羅巴において考ふるよりも甚だ大なり」「されば日本には國債といふものなくして著大なる國寶と無限の國家的信用とあり。ある貴人は余に云へり。『――石を錢に鑄るべく、石は錢の價値あり』」と、かくて「日本の住民が混淆なくてある間、日本に於ける外國貿易は、歐洲人が移住し、其住民と交はりて新しき一國民となり、或はその住民を征服[#「征服」は底本では「制服」]して風俗、習慣、生活必需品一切を強要して、母國たる歐洲との交易を須要とし、有利とするに至らしめたる歐洲外の國々の如くに、繁昌となることは決してあるべからず」(日本交通貿易史)と、この一外國人は結論した。
「英國が最近時支那につきて施爲したる」とは、もちろん南京條約及び阿片戰爭の謂であり、「古世界中の云々」は、歐洲以外の基督教文化、若くは機械文明によつて近代化されてゐない國々を指してゐる。しかし私らはしばらく冷靜にして、この歐洲以外はすべて植民地視するところの一外國人の謂ふところをきいてみよう。シーボルトのこの觀察は、レザノフが長崎を去つて、ひたすら武力による日本遠征を企てた一八〇五―七年から三十餘年を距ててゐるが、そしていはば日本通商の特惠國オランダの出先役人であつたシーボルトの「將軍政治」への偏つた傾倒だつたにもしろ「古世界中」では最も發達したる國、無限の國家的信用をもつた國、石をもつて云々と比喩するごとき統一された國、「日本の住民が混淆なくてある間」は歐洲人も決してこれを征服することはできないといふ國。これらは「世界の旅人」フオン・シーボルトの十數年にわたる日本滯在のうちにつみあげられた觀察ではあるまいか。
レザノフの觀察はそこまで至らなかつた。しかしレザノフはレザノフなりの見解をもつてゐ
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