思議ではないだらう。
ブラフトン大尉は平和裡に二週間を繪鞆に碇泊。薪水補給、艦體修理、測量海圖の作成など終つてから、遠く日本の太平洋沿岸を南下、澳門に着いた。そして二ヶ年の休養後、寛政九年、ブラフトン大尉は再び澳門を出發、東支那海を東上した。臺灣海峽を通過して沖繩島に達し、再び太平洋岸にぬけて、こんどは日本本土に近接、海圖に記入しながら江戸灣なども確かめて夏の終りに繪鞆へ入港した。ところがこんども醫師加藤他二名がブラフトン大尉を艦上に訪問したが、彼らはもはや三年前の知己ではなかつた。ブラフトン大尉が慌てて繪鞆を出帆したときに、松前藩の士卒三百人が港ちかくに迫つてゐたといふ。「異國船再び來る」の報は江戸へも飛んで、老中松平伊豆守は事態容易ならずとして、松前若狹の參覲を停め、津輕藩にも箱館出兵を命じたが、船足の早い異國船はつひに捕へることが出來なかつた。
北邊は漸く多忙であつた。しかもこれよりさき、イギリスのヴアンクヴア大佐が、多島海を測量してゐるとき、寛政の四年には、北からくる船のうちでも主人公、ロシヤのエカテリイナ女皇の第一囘遣日使節の軍艦「エカテリイナ號」が、女帝の親翰を捧持しつつ、千島列島を南下してきて、根室灣に投錨、松前藩に至つて、正式に來航の理由を明らかにしたのであつたが、これがヨーロツパ國家の元首が直接交誼を申入れた最初であらう。
三
十八世紀末から十九世紀へかけて、日本を訪れる黒船の數はしだいに頻繁となつたばかりでなく、一波また一波、あらたに寄せてくる波は、かへした波のそれよりもグンと大きくなつてゆく觀があつた。しかも鎖された國を脅やかすものは英、佛、露のみではなく、このときは既にアメリカの毛皮業船が、アラスカから澳門へむかつて、帆一枚で太平洋を渡りつつあつた。コロンブス發見以來の新興國民は、イギリスのクツクの探險報告でアラスカ沿岸のおびただしい獵虎の棲息と、それがロシヤ人にだけ獨占されてゐるのを知つて、命知らずのヤンキーたちは小帆船を驅つて殺到してゐた。當時アメリカ人は獵虎を狩るアラスカ土人に、鐵の頸輪一箇を毛皮三枚と交換して、毛皮一枚は澳門で七十五弗で取引されたと謂はれる。寛政四年(一七九二年)にエカテリイナ女皇の遣日使節が蝦夷松前にやつてきた年には、日本の東岸とほく太平洋を横ぎつてゆくアメリカ帆船は二十五隻にのぼつたといふことだ。つまり鎖された國を脅やかすものは北と南だけではなくて、東にも出現しつつあつたわけで、さらにこの年前後からは、毛皮船ばかりでなく、大西洋岸にあつたアメリカ捕鯨船が太平洋に河岸をかへた頃にあたる。世界最大の未開の海は豐富であつた。アメリカ人たちは抹香鯨を逐うて、南は赤道をこえて印度洋に入り、マダガスカルから紅海に達し、北はベーリング海峽をこえて、オホツクから沿海州一圓に至り、ハワイを通過する船はつひに鳥島をこえて、文政三年(一八二〇年)頃には、わが海岸に食糧薪水をもとめて、房總方面に上陸する捕鯨船が頻繁だつたと記録は書いてゐる。
かういふ事態は、その二百年前に九州豐後水道にたまたま流れついたポルトガル船や、薩摩海岸に飄然上陸した一宣教師やが、切支丹や活字やをもたらしてきたやうな、ロマンチツクなものでないことがわかるが、さて當時の幕閣は、かうした海の四周のざわめきに對して、どんな理解と方針があつたであらう? 時の老中松平樂翁は、ロシヤの遣日使節ラクスマンに對して、「宣諭使」石川將監、村上大學の目付二人を送り、宣諭使は「異國人え被諭御國法書」を讀みあげて、「かねて通信なき國の船舶本邦に渡來せば、之を逮捕し或は撃攘する事我國法にして、若し漂民あらば、必ず長崎に護送すべし、國書をもたらすとも、受領する事能はず」と云つた。「エカテリイナ號」は根室灣に碇泊して「宣諭使」の來着を待つこと八ヶ月のうち、同船で送還されてきた漂民數多も、ロシヤ人乘組員も、また日本側警備員たちも、多數壞血病で死んだ。史家たちは當時の記録をつたへて、この時江戸評議の延引や、ラクスマンへ「長崎入港許可書」を與へたことやを基礎にして、松平越前は或は「松前の一港ぐらゐ開いてもよい」意志があつたのではないかとみる向もあるが、とにかく幕府の苦心は漸くこの頃にはじまつたのだらうか。
ラクスマンが歸國して十一年目「長崎へゆけば國書が受理される」といふ彼の誤解? をもとにして、第二囘遣日使節國務顧問兼侍從ニコライレザノフは、文化元年七月に長崎に到着した。「ナデジユダ」「ネワ」の二軍艦をもつて、國書を捧持しつつ、クロンシユタツト發航以來二年目である。そして漂民護送は容れられたが、やはり通商は拒絶、ロシヤ側の贈物も法規に基いて、全部長崎奉行からおくりかへされて、記録は「ラクスマンの「長崎へゆけば」は誤解であつたことが明瞭
前へ
次へ
全78ページ中30ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング