水の補給をうけた恩義にむくいるためか、ドイツ語、ラテン語による北邊事情を密告した。長崎通詞中にはもちろん右二ヶ國語に通ずるものはなかつたので、和蘭商館長がこれを蘭譯して長崎奉行に提出した。日本文になつてゐる「ウシマにおいて、ばろんもりつあらあたるはんぺんごらう」の署名ある記録は、半紙一枚ほどの短文であるが「――日本國之筋を乘※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り看、又一所一所に集り候筈に候、必定考候は、來歳に至り而者、マツマエの地、その外近所の島々え、手を入候事も相聞候――云々」などいふのがある。どのへんまで眞實か知らないが、その後數年を經てから長崎に來た林子平は、和蘭商館長からこのことを聞知して、彼の「三國通覽圖説」をもつて海防の急を愬へる動機にしたとも謂はれてゐる。
 とにかく、まだ鎖國の夢まどらかな時代ではあつたが、さきにスパンベルグの訪問があり、いま「はんぺんごらう」の彗星のやうな通過があつて、黒船の姿は當時の人々に大きな衝動を與へただらう。しかも北からくる船はロシヤばかりではなかつた。十八世紀の末まではまだ世界の地圖に空白があつた時代である。ヨーロツパからみれば太平洋の周圍には、まだ誰もが手をつけない「めつけもの」があつた時代である。米大陸の一部が發見されてから二百數十年、ベーリング大佐がベーリング海峽を※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]り、アラスカ東端を發見してから半世紀に足りない。ヨーロツパ人からみれば北太平洋から支那大陸の間に横はる日本の存在は、コロンブスにも似たやうな冒險心を唆らせる對象だつたと思はれる。イギリスの海軍大臣は同じ一七七〇年代の安永年間に海軍大佐ジエームズ・クツクに訓令して日本本土沿岸を探險せよといつてゐる。クツク大佐は再度太平洋を横斷してアラスカまで來つたが、果さずして一七七九年ハワイで死んだ。するとこんどはイギリスに代つて、フランスのルイ十六世が、ド・ラ・ペルウズ海軍大佐に命じて、クツクの遺業をつがせた。ペルウズはクツクの死亡後、四年目にアラスカに到達、つづいて沿海州海岸を測量し、間宮海峽にまで及んだといふ。
 當時の幕閣は、奇矯の言を振りまいたといふ廉で林子平を逮捕し「海國兵談」は板木まで沒收したが、子平や同じ仙臺藩平澤五助の海防唱道も、むしろ遲きに過ぎたか知れぬ。ペルウズが去ると、代つてイギリス海軍大佐ヴアンクヴアが二隻の軍艦を率ゐて、アラスカの多島海へきた。それが丁度寛政の三年である。そしてヴアンクヴア大佐が困難な多島海の測量を終へて退くと、その部下ブラフトン大尉が、愈々クツク以來の宿願である日本沿岸測量を遂行、寛政五年の九月、暴風の中を津輕海峽に達し、北上して蝦夷地の繪鞆(室蘭)に入港投錨したのであつた。
 このとき松前藩は防備手薄であつた。家老松前左膳はオシヤマンベにおいて英船渡來の報を知るや、早速藩廳から高橋、工藤の他數名の藩士に、少しロシヤ語のわかる醫師加藤肩吾をつけて繪鞆へ急行させた。このとき松前藩は手薄であつたためか、事が急で方針が確定してゐなかつたためか、いきなり異國船を撃攘する態度にはいでず、ロシヤ生れの相手方水兵に加藤のロシヤ語をもつて漸く意志を通じながら、艦上を訪問したといふ。ブラフトン艦長はよろこんで一行を歡待し、會食の後、高橋、工藤、加藤らは携帶したロシヤ製の日本北部地圖を示して、これを謄寫せしめ、ブラフトン艦長はまたその謝禮として、自國のクツク大佐がつくつたところの世界海圖を高橋らに贈つたさうである。
 このときのロシヤ製北部日本地圖などいふものが、どうして高橋らの手に在つたのか、そのいはれを示した記録を私は知ることができない。併し何故か不思議といふ氣はしない。日本で一番最初にロシヤ語を解したのは、學者でも武士でも醫者でもなく、海上難破してカムチヤツカとかオホツクあたりに漂着した日本の船乘たちであつたことを、多くの記録が語つてるやうに、蝦夷地に住んだ漁夫とか農夫とかは、記録もほとんど傳へ得ない世界において、カムチヤツカ土人や漂流ロシヤ人などと入り雜つて生活してゐただらうと想像することが出來るからである。現實はつねに記録よりも豐富だが、その記録でさへが、長崎と薩摩の間を往來する日本帆船が漂流して、フイリツピンのマニラやハワイ邊まで漂着した事實を傳へてをり、四國沖を航海する鹽をつんだ日本帆船が難破漂流して、太平洋の對岸(ずゐぶん遠い對岸であるが)アメリカ合衆國のオレゴン州コロンビア河口に流れついたなどいふ記録や、もつと北方のカナダ海岸に漂着してアメリカインデヤンの捕虜となつたとか、生きながらへて土人と混血してしまつたと推測されるやうな事實さへ傳へてゐるのだから、スパンベルグ來訪以來五十年の當時、ロシヤ製日本地圖が自然的な力で松前藩士らの手に在つても不
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