柄阿蘭陀に似候」「阿蘭陀仁たべ候ばうとる(バタ)と申物」をつけ、「阿蘭陀仁たべ候パンと申物」をくつてゐるといひ、「燒酎の味仕候」といふ火酒を馳走になり、「夫より紙にて仕候繪圖を出申し、又圓き物にて、世界萬國の圖を仕候物を出しみせ候。いづれも日本に近き國より參り候にも仕形仕候云々」などとあつて、三人のうち、恐らく僧侶龍門の長崎知識によつて判斷したのだらうと附記してある。スパンベルグは沖合から日本本土を望見しただけで去つたが、仙臺藩は旗本三十名以下、大筒役石火矢係など多數の武士を牡鹿半島に急行せしめ、石卷港は凡ゆる船の出入を停止、「――此間御城之御用意、扨て近代無之大騷動――」であつた。
 日露關係はかういふ風にはじまつたのであるが、ロシヤはこのとき地球の北端をきはめ、それからは南下しつつ支那、印度にでる一途であつた。カムチヤツカやアラスカに根城をおき、ヨーロツパに株主をもつ露米會社は、北氷洋の獵虎、沿海州の黒※[#「豸+占」、第4水準2−89−5]の毛皮を當時最も高價に取引された支那の港に賣りこまねばならなかつたし、最も幸便に北太平洋から東支那海にぬけるには、日本本土を仲繼ぎにすることが最上であつたらう。しかも日本は「全島黄金に埋まつてゐる」といふ、當時の世界的傳説があつたといふから、この鎖された國を顧客ともしたかつたにちがひない。いづれにしろ日露關係の起源は古くはなかつたが、以來はまことに執拗に二世紀にわたつて反覆されてゐる。ロシヤの當時の日本に對する方針が、非常に惡質の侵略といふべきものか、それとも先進國としての經濟的接近といふべきか、私に判斷は出來ないが、尠くとも當時の歴史が傳へるところでは、武器をもつて脅迫するなどいふのが底意ではなかつたらしい。たとへばピヨトル大帝以來日本の船が難破して、沿海州などに漂泊した例は多く、それらの乘組員が庇護されてペトログラードの日本語學校の教師となつたり、ピヨトル大帝やエカテリイナ女皇に謁見をしたりした記録は有名である。もちろんロシヤの眞意がそれらを餌として日本の歡心を買ふものであつたとしてもである。ピヨトル大帝の遺志をついだロシヤ元老院は日本探險隊長スパンベルグ中佐の出發に先だつて、次のやうに訓令してゐるといふ。「カムチヤツカにおいて若し漂着の日本人あらば、日本國に對する友誼の表徴として之を其本國に送還すべし。遭難海員を護送して其郷土に送還するは、日本國訪問に好箇の口實をなすべきも、若し同國政府にして該遭難海員を受領する事を拒絶せば、之をして日本國海岸の何れの處にてか上陸、郷土へ歸還せしむべし。あらゆる機會を利用して好意を示すを旨とし、頑迷なる東洋流の無愛想をも意に介すべからず。日本人の感情を害する如き擧動を極力愼むべし――云々」
「燒酎の味仕候」火酒を飮み、世界地圖を見、地球儀をみておどろいた僧龍門の報告と、その六年前に書かれたロシヤ元老院の記録とをならべてみると、既にロシヤがあらゆる意味でどんな大敵であつたかを思はせる。彼處には「友誼の表徴」といふ文字があり「東洋流の無愛想」といふ豫備知識があつたのだ。爾來ロシヤの對日方針は、ピヨトル大帝のそれに副うてゐるものがあるやうだが、一國の政治にはそれぞれ複雜な變遷があるし、言葉も文字も通じない未知の國同志の理解の喰ひちがひは屡々おこつた。「はんぺんごらう事件」と「フオストフ事件」とは、安政二年川路プーチヤチンによる日露修好條約が結ばれるまでの百年間、ロシヤ側の執拗なる日本訪問にかかはらず、日本側の除きがたい惡感情の種子となつたやうである。
 明和八年(一七七一年)夏、カムチヤツカから出帆した一隻の黒船が、千島列島を南下、まるで彗星のやうに津輕海峽をぬけて、やがて大阪灣に出現、阿蘭陀船と僞つて毛皮と米薪炭を交換したが、間もなく長崎沖にいで、奄見大島へぬけ、臺灣海岸に上陸、蕃人と合戰し、再び南下して支那の澳門に達したといふのが「ばろんもりつあらあたるはんぺんごらう」の、カムチヤツカ監獄脱走船であつた。
 ハンガリヤ人にしてポーランド貴族、自稱ベニヨーウスキイ伯爵が、日本ではどうして「はんぺんごらう」と訛つたか私はいはれを知らない。このハンガリヤ人はポーランド内亂の際ロシヤ軍の捕虜となつて、一七六九年シベリヤ流刑を宣告され、當時露米會社の政策によつて、カムチヤツカに護送されたが、三年目に一味徒黨をかたらつて、カムチヤツカ長官以下を殺戮し、北極から支那までの脱走に成功した世界的冒險家? である。そしてこれが恐らく北からきて日本海岸を通り、東支那海へぬけた世界最初の船であらう。
 歴史は時によつて皮肉である。ピヨトル大帝以來の對日方針の辛苦經營は、不幸にもこんな脱走犯人によつて最初の幕が開かれたわけである。しかもこの脱走犯人は奄見大島に碇泊中、食糧薪
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