創成の苦心も、開國の雪崩をうつやうな過渡的な容貌をおびてゐるのも自然であらう。ドイツ・マインツの貴族であつたグウテンベルグは、宗教上の意見から平民たちと衝突して、ストラスブルグに亡命した。そしてこの鼻つぱしのつよいドイツ貴族は亡命十一年間、獨佛國境の古都にあつて、心しづかに活字創造に沒頭したし、以後の半生ももつぱらそれに終始することができた。ところが「日本のグウテンベルグ」は、その生涯のほとんどを政治的動亂のうちにおかねばならなかつた。彼は活字のほかに造船もやらねばならなかつたし、自から船長もやらねばならなかつた。製鐵事業もやれば教育もやつた。そして「はやり眼の治し方」や「石鹸のつくり方」や「ローソクと石油の灯はどちらが強いか」などに至るまで、大童になつて宣傳しなければならなかつたのである。
 そしてこの相違こそ、開國の事情を知ることなしには日本の活字が説明できない所以であらう。私は先輩友人に教へられて、江戸時代の海外關係史のそれこれを讀んだ。そして私らの遠い祖先と、當時の海の日本の、自分らの位置を知る氣がした。蝦夷地のむかふ、エトロフや、アラスカや、カムチヤツカの、氷に鎖された地圖の涯にも、おどろくべき歴史があつた。私の頭では蒸汽船以前にはまるで空白のやうであつた太平洋にも、アラスカから支那の澳門まで、直線に乘つきつてゆく帆かけ船の歴史があつた。日本海のむかふ、海と陸との區別だけしかハツキリしてゐないやうな沿海州から、シベリヤの茫漠とした地圖のうちには、ジンギスカンの後裔モンゴリヤ人と慓悍無比なロシヤコサツクとの、まるでお伽噺にきくやうな永い歴史をかけたたたかひがあつた。そして鐵砲といふ新武器をもつてジンギスカンの後裔たちを征服したスラヴ族は、地球の北端まで東漸し、やがて千島列島に沿うて南下しつつあつたのである。また南方薩摩、琉球のむかふには、ジヤワ、スマトラに根城をおくオランダ艦隊と、印度、マライに足場をもつイギリス艦隊とが、南太平洋や東支那海で覇をあらそひながら、東上しつつ、オランダ艦隊が臺灣を掠めとれば、イギリス艦隊は琉球に上陸した――。
 江戸時代が三百年の鎖國にゐるうち、海の日本の四周は、刻々にヒタしてくる「戰爭」と「文化」の波であつた。そして活字は昌造らがそれを拾ひあげるまで、四世紀にわたつて長崎の海邊に漂つてゐたわけである。

      二

 嘉永六年(一八五二年)アメリカの黒船四隻が浦賀へきて、日本をおどろかしたと謂はれるが、そのおどろきの劃期的な意義は、おそらく黒船の形にあつたのではなからう。長崎港を無視して、禁制の江戸灣へ侵入してきたことと、不遜にも武力をもつて開國を迫つたといふ、ペルリのやり方にあつたのであらう。「――黒漆のやうに相見え、鐵をのべたるがごとく丈夫にて、船の兩脇には大石火矢を仕かけたる船――」が日本海岸に出現したと、時の伊達藩廳が江戸へ早打ちをもつて注進したのは、既に元文五年(一七三九年)にはじまつてをる。もちろんこれはアメリカの船ではなく、ロシヤの船であつて、時の幕閣は(陸へあがつたらば取りおさへておいて、直ちに注進せよ)と、のんきな命令をだしてゐるが、以來百餘年の間、日本のあちこちに、さまざまの黒船があらはれた。
 仙臺藩廳をおどろかしたロシヤの黒船は、海軍中佐スパンベルグの日本探險船であつた。この船は享保十九年(一七三三年)クロンシユタツトを出て、遠く喜望峰を迂囘しながら太平洋を北上しつつ、二年後にオホツクに到着、五年後の元文四年にオホツクで新たに建造した三隻の船をもつて、一度び千島列島を南下してきたが、海上暴風に遭つて目的を達し得ず、再び六年後の元文五年六月に、漸く日本本土を望見しつつ、牡鹿半島の長坂村沖合に達し、住民らと手眞似をもつて、煙草と鮮魚と交換したといふ――。
 私はスラヴ人の根氣のよさにおどろく。海軍中佐スパンベルグは、ベーリング海軍大佐を長とする極東探險隊の第三探險隊長で、ピヨトル大帝の第二次極東探險隊の一部であつた。これを溯るとベーリング大佐が「ベーリング海峽」を發見した第一次の探險隊は一七二五年にペトログラードを出發してをり、以來第二次探險で、一七四二年にコマンドルスキー群島の一つベーリング島で、壞血病をもつて瞑目するまで、前後十七年を費してゐる。そして更にロシヤの極東制覇を溯つてゆくならば、アラスカ經營、カムチヤツカ統治、沿海州のモンゴリヤ人種打倒と、ヨアン四世がはじめてヴオルガ河を渡つて東漸しはじめた一五三〇年に至る二百餘年の歳月があつた。
 これがロシヤ人が日本を訪れた最初である。スパンベルグの船が更に南下して、仙臺藩領田代島三石崎沖に假泊してゐるとき、藩吏千葉勘左衞門、名主善兵衞、大年寺住職龍門の三名は船を訪れて、その報告を次のやうに記録してゐる。「人
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