のあらば穩便の處置をたのむ」といふ文句もみえるから、フランスの漁夫もあつたであらう。とにかく太平洋はまだ處女であつた。文政八年、幕府は「異國船掃攘令」を出してゐるが、直接にはこの「突拍子もない船」の來着に原因してゐるのは自然だし、よほど手を燒いたにちがひない。文政五年、つまり一八二二年、どんな順を經て日本から抗議されたのか知らないが、アメリカ政府は議會において、自國の捕鯨會社に對して警告を發する決議をしたほどであつた。
殘念ながら私はアメリカ捕鯨船漂着の記録をつぶさにしないから、イギリス捕鯨船だけに限ると、文政五年江戸灣に一隻、同六年に常陸國沖合に六、七隻、同七年同じく常陸國沖合に二隻、同年薩摩海岸に一隻、同八年南部藩沿岸に三隻、同九年上總國望陀沖に一隻、天保二年蝦夷繪鞆沖に一隻といつたぐあひである。これに立役者のアメリカ、それにフランスその他を加へたならば、日本海岸に漂着するもの毎年數件、數十件にものぼつたであらう。
しかもこれらの船の性質上、南の長崎も北の松前も無視してゐる。長崎の目付役? 和蘭商館さへ事前に豫知できぬやうなやからである。彼らがどんな風にやつてきたか、たとへば文政六年及び七年に、常陸國沖合にあらはれた捕鯨船についてみると、六、七隻の異國船はまつたく食糧薪水に缺乏してゐて、手眞似をもつて意志を通じながら、附近の沖合にゐた水戸の漁夫たちと、ヨーロツパ雜貨と、米や煙草などと交換した。漁夫たちは親しく異國船に招待されて、珍奇な外國の風俗や品々におどろいたが、噂は忽ち漁村から町方までひろがつて、こんどは漁夫を通じて交易せんとする商人が續出した。水戸藩廳ではおどろいて商人、漁夫ら三百餘人を捕へたが、異國船はもはや食糧薪水を得たためか間もなく沖合から姿を消してしまつた。ところが翌年漂着した二隻の捕鯨船は、もはや日本の漁夫らと交易して薪水をうることが出來ないので、ボート四隻で大津濱に上陸、十六名は武裝してゐたが、水戸藩吏に捕へられた。のち取調によつて、食糧補給以外他意なきこと判明したので、釋放されたが、一時は沖合に待機してゐた本船から大砲をうちかけてくる騷ぎであつたといふ。同じ年薩摩領寶島でも、上陸してきたイギリス漁夫たちは、火酒やパン、貨幣などみせて、畑にゐる牛をもとめたが、拒絶されるとこんどはボート三隻に二十名が武裝上陸、本船から掩護砲撃下に畑の牛を掠奪せんとした。しかし薩藩吏の應戰によつて彼らは目的を達せず、一つの遺棄死體をのこして退散した。――
つまり彼ら漂着船の目的は、自から單純であつた。彼らは、食糧薪水の補給さへすればよかつたし、それ以上にはせいぜい自國の雜貨を與へて、代りにめづらしい日本品を土産にでも出來ればよかつたのであらう。毛色眼色は異つても、言葉は通じなくても、政治的意圖をもたぬ人間同志はつねに親しみやすいものである。しかも記録にものこらない、北は蝦夷から南は琉球までの日本海岸で、そんな事柄は澤山あつたらうと想像することは困難でないから、この時代にこれらの船々が、鎖された國の人々に與へた影響は、けつして小さくなかつたにちがひない。
そんな意味からもつづいて起つた天保八年(一八三七年)の「モリソン號事件」などは重要であつた。有名なこの事件はアメリカ、オリフアント會社重役チヤールズ・キングを主とし、日本語學者で宣教師ギユツラフ、博物學者ウエルズ・ウイリヤムズ、醫師で天文學者ピーター・パーカーらの一行であつた。「モリソン號」の眞の目的が何であつたか、直接には日本漂民で尾張の船乘岩吉、久吉、音吉、同じく肥後の庄藏、壽三郎ら數名を本國へ護送することで日本の歡心を得、間接には日本通商の下心を得んとするにあつたらうと史家たちは云つてゐる。單に漂民の護送ならば長崎で充分であるものを、避けて江戸灣にむかつたのも、和蘭商館の妨害を懸念したことが考へられるなど、理由の一つである。
しかしいづれにしろこの船は特殊であつた。その平和的使命を明らかにするために、モリソン號の一切の武裝を解除して、パーカーは醫療器械各種、藥品等のほか天文に關する器械、圖解などを携行、ウイリヤムズはまた博物學方面の資料を準備したと謂はれる。つまりモリソン號はその頃漸く支那において基礎を強固にしてゐたオリフアント會社の通商的野心から準備されたものであつても表面は漂民の護送、同時にヨーロツパ學術の紹介と普及にあつたといふことができよう。ところでモリソン號のかうした内容については翌年になつて和蘭商館長より長崎奉行宛への報告がはいるまで幕閣は何ら知る處がなかつた。江戸灣へむかつたモリソン號は三浦郡白根沖合に差しかかるや小田原藩及び川越藩の砲火をあびて退去。再び薩摩國兒水村近くに投錨したが、ここでも砲火をあびて一發は命中、危險に瀕したので、つひに得ると
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