校舍を建てシーボルト講學の場とす」とあり「醫學、博物學を講説す」とあつて、當時の模樣を日高凉臺が手紙で傳へた文に「此節は西醫も珍敷者到來にて、町ぢゆう施療彼是にて、四方の英哲許多相集、未曾有之盛事と申に御座候、當時阿州美馬順三、江戸湊長安、遠州戸塚靜海、阿波高良齋、其他研介○○などいづれも相應に出來候者にて愉快無限に相覺申候」云々といふくだりもあつて、昌造が物心つくころには、長崎ぢゆう好學の氣分が溢れてゐたのだから、よほどのボンクラでない限り、何らかの影響をうけずにはゐられなかつたらう。
 ましてや彼は通詞を職とする家柄に人となつたのだから、その影響度合もはげしかつたにちがひない。おまけに長崎は幕府直轄の地であるし、通詞は長崎奉行の支配下にあつたから、政治的影響も色々と身にしみながら成長したと思はれる。殆んど江戸末期の政治的合言葉となつた「攘夷」と「開國」は、海外文物の入口であつた長崎では、日本ぢゆうのどの土地よりも直接ひびいたらうし、通詞といふ職業柄、長崎ぢゆうの誰よりも現實的に影響したにちがひない。
 昌造二歳の文政八年には幕府は「異國船打拂令」を出してをり、昌造十九歳の天保十三年には「異國船打拂令改正」が出てゐる。文政八年のそれは周知のやうに「異國船渡來之節無二念打拂可申」といふ頑固なものであるが、天保十三年の改正令では「其事情不相分に、一圖に打拂候而は、萬國に被對候御所置とも不被思召候」また「異國船と見受候はば、得と樣子相糺し、食糧薪水等乏しく、歸國難成趣候はば、望之品相應に與へ」云々となつてゐて、この改正令も外國人の上陸は許さなかつたが、よほど緩和されたものとなつてゐる。文政八年の令は將軍家齊であるが、改正令は家齊退職の直後であつて、その間幕閣にもいろいろと機微な動きがあつたであらう。文化文政の頃からは英船、魯船の來航が漸く頻繁となつてゐるし、少年昌造には、政治の機微な動きについて察知することは出來なかつたとしても、たとへば次のやうな出來事は影響あつたのではなからうか?
 つまり「蠻社遭厄事件」で、天保十年に高野長英、渡邊崋山が捕へられたとき、昌造は十五歳であつた筈である。長英の「夢物語」、崋山の「愼機論」を幕府が忌むところとなつて崋山は天保十二年、昌造十七歳のとき自殺し、長英は昌造が二十七歳、嘉永三年に自刄するまでは破獄したまま行衞不明だつた。シーボルト
前へ 次へ
全156ページ中38ページ目


小説の先頭へ
文字数選び直し
徳永 直 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ 登録 ご利用方法 ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング