その二は、昌造が活字製法に二十年來苦心をつづけてゐた人間だつたこと。ガンブル寄港以前にも幾度か門人をつかはして、上海の傳道印刷會社からその製法を學びとらうと企てては失敗してゐた人間だつたこと。つまり昌造のやうな、江戸の洋學者たちと同じく、近代活字の製法にふかい關心を持つた人間がゐたといふことであるが、さらにも一つ、昌造の場合、通詞といふ職掌柄、外國の文明品を輸入して研究するには、同じ洋學をやる人間のうちでも、比較的好都合だつたといふ條件である。
つまり昌造は、當時のわが日本において近代活字を造りだすのに、誰よりも適當な位置にゐたといふことになる。もちろん和蘭通詞も幕末の長崎では百人を超えたと謂はれるから百人のうち偶々それが本木であつたといふことは、昌造の人間としての特殊面であるだらう。だが私は、人間昌造を含めて、日本の近代活字創成の歴史を知るには、一つは、「地の利」といふもの、當時の長崎がもつた國内と國外關係を究めること。いま一つは、洋學の傳統といつたもの、及び通詞と通詞昌造の生涯といつたものから、まづ知るべきだと考へた。
それで私はまづ後者から始めよう。
昌造は文政七年、長崎の新大工町に生れた。父は町の乙名(區長)北島三彌太氏、母は本木繁氏。その四男であつて、幼名を作之助といつたと謂ふ。天保五年、十一歳のとき本木昌左衞門の養子となつたが、昌左衞門は母繁の兄であり、伯父である。
私は昌造の幼時について傳へた文獻を知らない。多くの昌造傳は「幼より學を好む」とか、「幼より俊敏にして工才に長けたり」とあるくらゐだが、これは恐らく傳記者が附加した文章だらう。私もそれを嘘だなぞとは思はないが。
彼の生れた文政七年は西暦にすると一八二四年で、當時の長崎を歴史的に想像してみると、その前年文政六年には、彼の新大工町とはつい眼と鼻のちかくにある出島の蘭館に、館附醫員として血氣二十六歳のフオン・シーボルトが來朝してゐた。そして昌造の生れた年には、弱冠二十一歳の高野長英が遙々東北の水澤から笈を負うて長崎に來、シーボルトに弟子入りしてゐるが、翌文政八年には、長崎の郊外鳴瀧に校舍が建てられ、このドイツ生れの新知識をたづねて、醫術に志す者、自然科學や語學に志す者、當時のすぐれた青年たちが、日本ぢゆうのあちこちから集つてきてゐたのである。洋學年表文政八年の項に、「長崎の東郊鳴瀧の地に
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