目的とする銅粉をいれた液體の中に、二つの金屬板をたてて極板とし、これに電氣の兩極をつなぐ。すると一方の極から一方の極へ電氣が流れてゆく作用で、分解した銅粉は一方の極板に附着する。電胎法と稱ばれる今日の活字字母の製法は、これを二度繰り返すことで母型をつくるので、例へば最初の種子《たね》、「大」なら「大」といふ字を彫刻した凸版(雄型)に一度この法を用ひて雌型(凹字)の「大」をとり、いま一度繰り返して、こんどは雌型「大」から雄型「大」をとるのである。
「木版ハ數々刷摩スレバ尖鋭ナル處自滅シ終ニ用フベカラザルニ至ルコレヲ再鏤スルノ勞ヲ省クニ亦コレヲ用フベシ」と説いてゐるが、これで讀むと幸民は鉛のボデイをふくめた鑄造活字のことまでは思ひ及んでゐないと思はれるが、「其欲スル所ニ從テ其數ヲ増スヲ得其版圖ノ鋭利ナル全ク原版ト異ナラズ」と述べてゐるあたりは、或は實驗くらゐやつたか知れず、電氣分子による分解作用のいかに零細微妙であるかに感動してゐるさまが眼に見えるやうである。
 川本幸民は醫者であつた。呉秀三の「箕作阮甫」に據ると、「幸民は裕軒と號し攝州三田の人。幼い時藩の造士館に學び、二十歳江戸に出て足立長雋の門に入り、後坪井信道に就いて蘭醫學を受け、緒方洪庵、青木周弼と名を齊くした。天保三年其藩の侍醫に擧げられ、安政三年四月蕃書調所の教授手傳出役となり、四年十二月教授職並に進み、六年七月遂に教授職となる。文久二年徴出されて幕士になる。「氣海觀瀾廣義」「遠西奇器述」「螺旋汽機説」「暴風説」等の著述があり、親ら藥を製し又玻※[#「王+黎」、第3水準1−88−35]版寫眞を作り、又阮甫と前後して薩摩の邸に出入して、島津齊彬侯の爲に理化學上の事などを飜譯又は親試したこと尠くなかつた」とある。また洋學年表安政元年の項によれば「島津齊彬曾て川本幸民の記述「遠西奇器述」を讀み西洋造船法を知りたれば其主九鬼侯に請ひ祿仕せしめたり」とあるし、勝海舟手記による安政二年頃の江戸在住蘭學者たち、杉田成卿、箕作阮甫、杉田玄端、宇田川興齋、木村軍太郎、大鳥圭介、松本弘庵など俊秀のなかでも、幸民は特に理化學に擢んでてゐたといふ。しかも、この頃の學者たちは、西洋の本を飜譯するといふだけではなかつたのだ。たとへば嘉永の始めごろ幸民がある男に燐寸の話をしたところ、相手は實際そんなことが出來るなら百兩やらうと云つた、す
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