岡へんまで行脚して、本木の遺族や平野の未亡人などから聽き得たこと、或は寺社や舊幕時代から、土地に殘つてゐる文章などから探しだした貴重なものだつた。
「偶然だナ、まつたく偶然だ。」
 H君はまだ云つてゐた。なるほど私と三谷氏との邂逅も偶然だつたが、本木傳に關心をもつて寄り集つたのが、三人とも印刷工だつたといふことも偶然だつた。
「あんたも本木昌造について何か書きなさいよ、ぼくも書く、宣傳するだけでも何かのためになる。」
「さうだネ。」
 私もボンヤリと天井をみあげながらこたへた。本木昌造を書くことは日本の印刷術を、日本の活字を書くことだ。そしていま死の迫つてゐる三谷氏のことを思ひ合せると、それを書く自分らの仕事が、次第に偶然ではない氣がしてくるのであつた。
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        サツマ辭書


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      一

 三谷幸吉氏が亡くなると、生前にあづかつた「本木昌造、平野富二詳傳」の再版原稿が、私にとつては遺言のやうな形になつた。つまり三谷氏の志を繼いで、私も近代日本印刷術の始祖ともいふべき人について、その功績を讃へるために何か書かねばならぬ。
 私は繰り返しその書物を讀んだ。主文は福地源一郎が書いたもので、明治二十四年發行の「印刷雜誌」に掲載されたものである。源一郎は櫻痴と號し、天保十二年長崎の生れ、やはり和蘭通詞の出身で、昌造とは十七年の後輩であるが、安政五年には十八歳で軍艦頭取矢田堀景藏について咸臨丸に乘り組んだことがあり、萬延元年二十歳では竹内下野守に隨つて歐洲へ使したこともある。非常に若くから活動したので、昌造とはいはば同時代的な期間もあつたに違ひなく、また同じ長崎通詞のうちでも航海や造船術の先覺でもあつた昌造に對しては私淑するところあつたかに思はれる。今日印刷歴史書やその他で本木について書かれる傳記的文章は、主としてこれから出てゐると謂はれるが、それは五百字詰の用紙にすると二十枚足らずであらうか。
 三谷氏がこの書物に「詳傳」とつけたのは、その福地の主文に「補遺」とか「註」とかの形でほぼ同じながさの、自身で行脚、探索した事蹟や聽き書きを附加へたことに因るのであらう。たしか私の讀んだ範圍では、昌造についてこれより詳細なものを他に知らないが、また一方からいふと、本木についてはまだこの程度しか書かれたものがないとい
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