心」であつた。
「ヘエ、でも署名がちがふぢやないの?」
四六判の小さい書物は津田といふ人の著書になつてゐる。
「さうですよ、津田といふ篤志な人で、いはばパトロンですね、文章を綴つた人も三谷氏ぢやない。三谷氏はこの中にある澤山の開拓者たちの遺蹟を足で探しあるいた人ださうですよ。」
「ホウ!」
と、私は心から云つた。三谷つてどんな人か知らないが、この本を最初讀んだときから大變な仕事だナと感心してゐた。それには本木や本木の協力者平野富二の略傳もいれてあつたが、その他數十人の近代印刷術のために苦鬪した人々の事蹟が、長短いろいろではあるが調べられてあつた。加藤復重郎といふ日本最初の鉛版師、つまり紙型をとつて活字面を鉛の一枚板に再製する工程であるが、紙型は雁皮紙を數枚あはせれば凹凸が鮮明になることや、スペースと活字面の高低にボール紙を千切つて加減をとればいいといふことや、簡單のやうなことでも、それを發見するまでのさまざまの悲喜劇を織りこんだ苦心の徑路は、たとひ印刷業關係者でないものでも身うちの緊きしまる思ひがする。今日の活字の字形を書いた竹口芳五郎といふ人は、平野富二に見出されるまで、銀座街頭で名札を書いてゐたといふ話や、その他最初のルラーの研究者境賢治とか、今日の活字ケースを創つた山元利吉といふ人の苦心談といつたもの、複雜な近代日本の印刷術が完成するまでの、じつに澤山の有名無名の發明者、改良者の苦心が描かれてあつたが、私がこの書物の著者に感服してゐるのは、多くはもはや故人となつてゐる、それらの人々を探しあるいたこと、殊に發明者とか改良者とかいふ人が、多くは産を成したわけではないので、窮乏離散してしまつた遺族をたづねあるいて聽き取つたりする仕事も、並大抵ではなかつたらうといふことであつた。
「どうです、いちど三谷氏を訪ねてみようぢやありませんか。」
H君は熱心であつた。
「住所はわかつてゐます。つて[#「つて」に傍点]はなくてもさきに手紙を出しとけば會つてくれるでせうから、二人で行つてみませんか。」
「いいね、行きませう。」
私もよろこんで答へた。
それから數日經つとH君から手紙がきた。それによると三谷氏は入院中で、何病氣だかわからぬが面會謝絶ゆゑ、いましばらく見合せようといふことだつた。いくらか失望したが、また數日經つと、こんどは速達が來た。三谷氏は胃癌の大手術で經
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