徳永直

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)家《うち》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)川村|検挙《あが》りました

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   (数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#感嘆符二つ、1−8−75]
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「ね、あんた、今のうち、尾久の家《うち》(親類)へでも、行っちゃったがいいと思うんだけど……」
 女房のお初が、利平の枕許《まくらもと》でしきりと、口説《くど》きたてる。利平が、争議団に頭を割られてから、お初はモウスッカリ、怖気《おじけ》づいてしまっている。
「何を……馬鹿な……逃げ出すなんて、そんな……アッ、ツ、ツ」
 眼をむいて、女房を怒鳴りつけようとしたが、繃帯《ほうたい》している殴られた頭部の傷が、ピリピリとひきつる。
「だってさ、あんた……」
 お初は、何かに追ったてられるように、
「あんた、争議団では、また今朝《けさ》、変な奴《やつ》らが、沢山《たくさん》何《ど》ッかから、来たんだよ………あんな物騒な奴らだものあんた、ほんとうに、命でもとり兼ねないよ……あれ、ホラ、あんな沢山ガヤガヤ云ってるじゃないの、聞えない?」
 聞えないどころか、利平の全神経は、たった一枚の塀をへだてて、隣《とな》りの争議団本部で起る一切の物音に対して、測候所の風見の矢のように動いているのだ。
 ナ、何を馬鹿な、俺は仮にも職長だ、会社の信任を負い、また一面、奴らの信頼を荷《に》のうて、数百の頭に立っているのだ……あンな恩知らずの、義理知らずの、奴らに恐れて、家《うち》をたたんで逃げ出すなンて、そんな侮辱された話があるものか。
「うるさいッ……あんな奴らはストライキで飯を食って歩いてる無頼漢《ならずもの》だ、何が出来るものか……うるさいから階下《した》へ行ってろ、階下《した》へ行けッてば……」
 お初は、仕様《しよう》ことなく、赤ん坊を抱いて立上ったが、不安は依然として去らない。
「あたしはおろか、子供たちだって、外出《そとで》も何もあぶなくて出来やしない」
 口のうちで、ブツブツ云っている。
「おい、おい、階下《した》にいる警察の人に、川村|検挙《あが》りましたかって、聞いて来い」
 昂奮《こうふん》すると猶《なお》のこと、頭部の傷が痛んで来た。医者へもゆけず、ぐるぐるにおしまいた繃帯《ほうたい》に血が滲《にじ》み出ているのが、黒い塀を越して来る外光に映し出されて、いやに眼頭《めがしら》のところで、チラチラするのである。
 恩知らずの川村の畜生め! 餓鬼《がき》時分からの恩をも忘れちまいやがって、俺の頭を打《ぶ》ち割るなんて……覚えてろ! ぶち込まれてから吠面《ほえづら》掻《か》くな……。
 仰向《あおむ》けに、天井板を見つめながら、ヒクヒクと、うずく痛みを、ジッと堪《こら》えた。
 会社がロックアウトをして以来、モウかれこれ四十日である。印刷機械の錆《さび》付きそうな会社の内部に在《あ》って、利平達は、職長仲間の団体を造《つく》って、この争議に最初の間は「公平なる中立」の態度を持すと声明していた。尤《もっと》もそれを信用する争議団員は一人もありはしなかったが……しかし、モウ今日《こんにち》では、利平達は、社長の唯一の手足であり、杖であった。会社の浮沈を我身《わがみ》の浮沈と考えていた。彼等は争議団員中の軟派分子を知っていた。またいろいろの団員中の弱点も知っていた。それで第一に行われたのが、「切り崩し」「義理と人情づくめ誘拐」であった。しかしそれも大した功を奏しなかった。そこで今度は、スキャップ政策をとったが、それも強固な争議団の妨碍《ぼうがい》のために、予測程の成功ではなかった。トラックの中に、荷物の間に五六人のスキャップを積み込んで、会社間近まで来たとき、トラックの運転手と変装していた利平が、ひどくやられたのもこのときであったのだ。
 それでも、職長仲間の血縁関係や、例えば利平のように、親子で勤めている者は、その息子を会社へ送り込んで、どうやら、二百人足らずのスキャップで、一方争議団を脅《おびや》かすため、一面機械を錆《さび》つかせない程度には、空《から》の運転をしていたのである。
「君、会社の中で養生していた方がいいぜ、争議団本部と、くっつき合っている君のうちなんか、まったく物騒だよ」
 仲間にも、しきりと止められた利平であったが、剛情《ごうじょう》な彼は肯《き》かなかった。たかが多勢を恃《たの》んで、時のハズみでする暴行だ。命をとられる程のこともあるまいと思った彼であった。刑事や正服《せいふく》に護《まも》られて、会社から二丁と離れてない自分の家《うち》へ、帰ったのだった。そして負傷した身体
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