《からだ》を、二階で横たえてから、モウ五六日|経《た》った朝のことなのである。
お初が、上《あが》って来た。
「検挙《あげ》られたんですとさ、川村が」
「何時《いつ》だ、昨日か[#「昨日か」は底本では「咋日か」]?」
「昨夜《ゆうべ》ですとさ、いい気味だね、畜生、恩知らずが、昨夜《ゆうべ》ひどい目に逢わしたんだってさ」
「フーム」
利平は、グッと頭部の痛みが、除かれたように瞬間感じたのである。社会主義者みたいな、長い頭髪と、賢《かしこ》そうな、小さいがよく冴《さ》えた眼の川村が、急に、小さく小さく哀《あわ》れっぽくなったように思われて来た。十二三歳の小児《こども》のころから、怒鳴りつけられたり、殴りつけられたりしながら、自分に仕事を教わっていたあの頃の、川村の顔が、ありありと彼の眼に映じて来たのだ。
一昨日の[#「一昨日の」は底本では「一咋日の」]晩も、二三十人検挙され、その十日ばかり以前にも、百四五十人検挙された争議団である。いくら三千人からの争議団とは云え、利平たちから考えれば、あまりにもその勝敗は知れきっていた。
「争議が済んだら、俺が貰い下げに行ってやろう?」
そしたら奴らどんな顔するだろう。
彼は、何だか、眼前《めさき》が急に明るくなったように感じられた。腹心の、子飼《こがい》の弟子ともいうべき子分達に、一人残らず背かれたことは、彼にとって此上《このうえ》ない淋《さび》しいことであった。川村にしても、高橋にしても、斎藤にしても、小野にしても、其他《そのた》十数人の、彼を支持する有力な子分は、皆組合の手に奪われてしまったのだ。
それを、いま自分が、争議中の一切の恨《うらみ》を水に流して、自ら貰い下げに行くことは、どれだけ彼らに大きな影響を与えることだろう。
まだ組合なんか無かった頃の、皆|可愛《かわい》い子分達の中心に、大きく坐って、祝杯などを挙げた当時のことなどが、彼に甦《よみがえ》って来た。
「そんな、ひどい目に遭わしたのか?」
利平は、蒲団の上へ、そろそろと、起き上った。
「だってさ」
女房は、すこし、不審《いぶ》かしそうに、利平の顔を見た。
「かまやしないじゃないの、あんな恩知らずだもの」
「ウム、そりゃそうだが!」
彼は、女房の手を離れて、這《は》い出して来た五人目の女の児《こ》を、片手であやしながら、窓障子の隙《すき》から見える黒い塀を見ていた。
恰度《ちょうど》、そのとき……塀向うの争議団本部で、
「ばんざーい、ばんざーい」
と高らかに、叫ぶ声があがった。
五十人も、百人もの声である。
「何だろう?」
夫婦は、眼を見合した。
「どれ……」
お初が起って行った。そして怖々《こわごわ》に、障子を開けて塀越しに覗《のぞ》くと、そのまま息を凝《こ》らしてしまった。
「何だ、どうした?」
それでも、お初は黙っている。
利平は、傷みを忘れて、赤ン坊を打っちゃったまま、お初の背後に立った。
と、其処《そこ》は、本部の裏縁が見えて、縁下の土間まで、いっぱいに、争議団員が、ワイワイ云って騒いでいるのが、真正面に展開されている。
縁の上には、二三十人の若い男たちが、折柄《おりから》の寒中にもめげず、スポリ、スポリと労働服を脱いで、真ッ裸だ。
「猿股も脱《はず》しちまえ、とてもたまらん」
と云いながら、真ッ赤になるほど、身体中《からだじゅう》を掻《か》いてる男もある。
「アラ、まあ大変な虱《しらみ》よ」
赤い襷《たすき》をかけた女工たちは、甲斐甲斐《かいがい》しく脱ぎ棄《す》てられた労働服を、ポカポカ湯気の立ち罩《こ》めている桶《おけ》の中へ突っ込んでいる。
「おい止《よ》せよ、女の眼前《まえ》で、そんなの脱がすのは止せよ」
「止せたって……、おいお前たち、女の人は、一寸《ちょっと》向うを向いててくれないか」
「アッハハハハ」
「オッホホホ」
男も女も、ドッと哄笑《こうしょう》する。
「どうしたんだろうね、何なの?」
お初は、利平にそっという。しかし利平は黙って答えないが、いうまでもなく、それは今朝《けさ》、留置場から放免されて帰って来た争議団員たちを、他の者たちが歓迎しているのだ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
利平は驚いた。暗い処《ところ》に数十日をぶち込まれた筈《はず》の彼等の、顔色の何処《どこ》にそんな憂色があるか! 欣然《きんぜん》と、恰《あたか》も、凱旋《がいせん》した兵卒のようではないか! ……迎えるものも、迎えらるるものも、この晴れ晴れした哄笑《こうしょう》はどうだ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
暖かい、冬の朝暾《あさひ》を映して、若い力の裡《うち》に動いている何物かが、利平を撃った。縁端《えんばた》にずらり並んだ数十の裸形《らぎょう》は、その一人が低く歌い出
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