る黒い塀を見ていた。
恰度《ちょうど》、そのとき……塀向うの争議団本部で、
「ばんざーい、ばんざーい」
と高らかに、叫ぶ声があがった。
五十人も、百人もの声である。
「何だろう?」
夫婦は、眼を見合した。
「どれ……」
お初が起って行った。そして怖々《こわごわ》に、障子を開けて塀越しに覗《のぞ》くと、そのまま息を凝《こ》らしてしまった。
「何だ、どうした?」
それでも、お初は黙っている。
利平は、傷みを忘れて、赤ン坊を打っちゃったまま、お初の背後に立った。
と、其処《そこ》は、本部の裏縁が見えて、縁下の土間まで、いっぱいに、争議団員が、ワイワイ云って騒いでいるのが、真正面に展開されている。
縁の上には、二三十人の若い男たちが、折柄《おりから》の寒中にもめげず、スポリ、スポリと労働服を脱いで、真ッ裸だ。
「猿股も脱《はず》しちまえ、とてもたまらん」
と云いながら、真ッ赤になるほど、身体中《からだじゅう》を掻《か》いてる男もある。
「アラ、まあ大変な虱《しらみ》よ」
赤い襷《たすき》をかけた女工たちは、甲斐甲斐《かいがい》しく脱ぎ棄《す》てられた労働服を、ポカポカ湯気の立ち罩《こ》めている桶《おけ》の中へ突っ込んでいる。
「おい止《よ》せよ、女の眼前《まえ》で、そんなの脱がすのは止せよ」
「止せたって……、おいお前たち、女の人は、一寸《ちょっと》向うを向いててくれないか」
「アッハハハハ」
「オッホホホ」
男も女も、ドッと哄笑《こうしょう》する。
「どうしたんだろうね、何なの?」
お初は、利平にそっという。しかし利平は黙って答えないが、いうまでもなく、それは今朝《けさ》、留置場から放免されて帰って来た争議団員たちを、他の者たちが歓迎しているのだ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
利平は驚いた。暗い処《ところ》に数十日をぶち込まれた筈《はず》の彼等の、顔色の何処《どこ》にそんな憂色があるか! 欣然《きんぜん》と、恰《あたか》も、凱旋《がいせん》した兵卒のようではないか! ……迎えるものも、迎えらるるものも、この晴れ晴れした哄笑《こうしょう》はどうだ※[#感嘆符二つ、1−8−75]
暖かい、冬の朝暾《あさひ》を映して、若い力の裡《うち》に動いている何物かが、利平を撃った。縁端《えんばた》にずらり並んだ数十の裸形《らぎょう》は、その一人が低く歌い出
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