こんにゃく売り
徳永直
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)温《あたた》かい
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)黒白|斑《まだ》ら
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(例)つくりごと[#「つくりごと」に傍点]
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一
私は今年四十二才になる。ちょうどこの雑誌の読者諸君からみれば、お父さんぐらいの年頃であるが、今から指折り数えると三十年も以前、いまだに忘れることの出来ないなつかしい友達があった。この話はつくりごと[#「つくりごと」に傍点]でないから本名で書くが、その少年の名は林茂といった心の温《あたた》かい少年で、私はいまでも尊敬している。家庭が貧しくて、学校からあがるとこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点](蒟蒻)売りなどしなければならなかった私は、学校でも友達が少なかったのに、林君だけがとても仲よくしてくれた。大柄な子で、頬《ほ》っぺたがブラさがるように肥《ふと》っている。つぶらな眼と濃い眉毛を持っていて、口数はすくないがいつもニコニコしている少年だった。もっとも林君もたっしゃでいてくれればもうお父さんになってる筈だから、ひょっとすればその林君の子供が、この読者にまじっていて、昔の茂少年とそっくりに頬っぺたブラさげてこの話を読んでいるかも知れない。もしかそうだったらどんなに嬉しいだろう。
私は五年生ごろから、こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]売りをしていた。学校をあがってから、ときには学校を休んで、近所の屋敷町を売り歩いた。
私は学校が好きだったから、このんで休んだわけではない。こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]を売って、わずかの儲《もう》けでも、私の家のくらしのたすけにはなったからである。お父さんもお母さんもはたらき者だったが、私の家はひどく貧しかった。何故《なぜ》貧しかったのか、私は知らない。きょうだいが沢山《たくさん》あって、男の子では私が一ばん上だった。
こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]は町のこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋へいって、私がになえるくらい、いつも五十くらい借りてきた。こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]はこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]芋を擦《す》りつぶして、一度煮てからいろんな形に切り、それを水に一《ひ》ト晩さらしといてあく[#「あく」に傍点]をぬく。諸君がとんぼとりにつかうもち[#「もち」に傍点]は、その芋をつぶすときに出来るおねば[#「おねば」に傍点]のことであるが、さてそのこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋さんは、はたらき者の爺さんと婆さんが二人きりで、いつも爺さんが、
「ホイ、きたか――」
と云って私にニコニコしてくれた。
「きょうはいくつだ、ウン、百くらい持っていって売ってこい」
頭をなでてくれたり、私が計算してわたす売上金のうちから、大きな五厘銅貨を一枚にぎらしてくれることもあった。
五厘銅貨など諸君は知らないかも知れぬが、いまの一銭銅貨よりよっぽど大きかったし、五厘あると学校で書き方につかう半紙が十枚も買えた。私はこんにゃく一つ売って一厘か一厘五毛の利益だったし、五十みんな売っても五六銭にしかならない。
ところが、その五十のこんにゃくはなかなか重い。前と後ろに桶《おけ》に二十五ずついれて、桶半分くらい水を張っておかないと、こんにゃくはちぢかんでしまうから、天秤《てんびん》をつっかって肩でにないあげると、ギシギシと天秤がしま[#「しま」に傍点]るほどだった。
――こんにゃ[#「こんにゃ」に傍点]はァ、こんにゃ[#「こんにゃ」に傍点]はァ、
大きな声でふれながら、いつも町はずれから、大きな屋敷が沢山ある住宅地の方へいった。こんにゃ[#「こんにゃ」に傍点]はァ、というのは、こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]だ、こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]だという意味で、大声でふしをつけると、ついそんな風に言葉がツマってしまうのである。
――こんにゃ[#「こんにゃ」に傍点]はァ、こんにゃ[#「こんにゃ」に傍点]はァ、
腰で調子をとって、天秤棒をギシギシ言わせながら、一度ふれては十間くらいあるく。それからまた、こんにゃはァ、と怒鳴るのだが、そんなとき、どっかから、
「――こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]やさーん」
と、呼ぶ声がきこえたときの嬉《う》れしさったら、まるでボーッと顔がほてるくらいだ。
五つか六つ売れると、水もそれだけ減らしていいから、ウンと荷が軽くなる。気持もはずんでくる。ガンばってみんな売ってゆこうという気になる。
「こんちはァ、こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋ですが、御用はありませんか」
一二度買ってくれた家はおぼえておいて、台所へいってたずねたりする。
しかし売れないときは、いつまで経《た》っても荷が減らない。もう夕方だから早く廻らないと、どこの家でも夕飯の仕度がすんでしまって間にあわなくなる。しきりに気はあせるが、天秤棒は肩にめりこみそうに痛いし、気持も重くなって足もはかどらない。しまいには涙がでてきて、桶ごとこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]も何もおっぽりだしたくなることもあった。
ねえ読者諸君! はたで眺めるぶんには、仕事も気楽に見えるが、実際自分でやるとなると、たかがこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]売りくらいでも、なかなか骨が折れるものだ。
――こんにゃ[#「こんにゃ」に傍点]はァ、こんにゃ[#「こんにゃ」に傍点]はァ、
ただこのふれごえ一つだけでも、往来の真ン中で、みんなが見ているところで、ふし[#「ふし」に傍点]をつけて平気で怒鳴れるようになるまでには、どんなに辛《つら》い思いをすることか。
私だってまだ少年だから恥ずかしい。はじめのうちは、往来のあとさきを見廻して、だれもいないのを見とどけてから、こんにゃ[#「こんにゃ」に傍点]はァ、と小さい声で、そッと呟《つぶ》やいたものだった。しかしだれもいないところでふれたって売れる道理はないのだから、やっぱりみんなの見ているところで怒鳴れるように修業しなければならない。
それからだんだん、ふれ声も平気で言えるようになり、天秤棒の重みで一度は赤く皮のむけた肩も、いつかタコみたいになって痛くなくなり、いつもこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]を買ってくれる家の奥さんや女中さんとも顔馴染《かおなじみ》になったりしていったが、たった一つだけが、いつまで経《た》っても、恥ずかしく辛《つら》かった。
それは往来で、同級生にぶっつかることだった。天秤棒をキシませながら、ふれ声をあげて、フト屋敷の角をまがると、私と同じ学帽をかぶった同級生たちが四五人、生垣《いけがき》のそばで、独楽《こま》などをまわして遊んでいるのがめっかる。するともう、私の足はすくんでしまって、いそいで逃げだそうと思うが、それより早く、
「あッ、徳永だ――」
と、だれかが叫ぶ。するとまた、
「ホントだ、あいつこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋なんだネ」
と、違った声がいう。私は勇気がくじけて、みんなまできいてることが出来ない。こんにゃくを売ることも忘れて、ドンドンいまきた道をあと戻りして逃げてしまう。
こんなとき、私が、
「ああおれはこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋だよ。それがどうしたんだい」
と言えればよかった。そしたら意地悪共も黙ってしまったにちがいない。ところが不可《いけ》ないことには私にその勇気がなかったので、もう二つの桶をあっちの石垣やこっちの塀かどにぶっつけながら逃げるので、うしろからは益々手をたたいてわらう声がきこえてくる……。
そんな風だから、学校へいってもひとりでこっそりと運動場の隅っこで遊んでいたし、友達もすくなかった。学問は好きだったから出来る方の組で、副級長などもやったことがあるが、何しろ欠席が多かったから、十分には勤まらない。先生はどの先生も私を可愛がってくれたし、欠席がつづくと私の家へ訪ねてきてくれたりした。しかし私には同級生の意地悪共が怖い。意地悪ではない同級生たちさえ意地悪に見えてきて、学問と先生を除けば、みんな怖かった。
ところが、あるときこんなことがあった。
もうすぐ夏になる頃の、天気のいい日曜日だった。私は朝からこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]桶をかついで、いつものように屋敷の多い住宅地を売ってあるいていたが、あるお邸《やしき》で、たいへんなしくじりをやってしまった。
そのお邸は石垣のうえにある高台の家で、十ばかりの石段をのぼらねばならぬ。石段をのぼると大きな黒い門があって、砂利をしいた道が玄関へつづいている。左の方はひろい芝生《しばふ》つづきの庭が見え、右の方は茄子《なす》とか、胡瓜《きゅうり》を植えた菜園に沿うて、小さい道がお勝手口へつづいている。もちろん私はお勝手口の方へその小さい菜園の茄子や胡瓜にこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]桶をぶっつけぬように注意しながらいったのであるが、気がつくと、お勝手口の入口へ、大きな犬がねているのであった。黒白|斑《まだ》らの、仔馬ほどもあるのが、地べたへなげだした二本の前脚に大きな頭をのっつけ、ながい舌をだしたまま眠っている。――
「今日は、こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋でございます……」
私はそう言いたいのだが、うまく声が出ない。こいつが眼をさましたらどうしよう? しかし黙っていては女中さんは出てこぬし、こんにゃくは売れない。私は勇気をだして、犬の顔ばっかり見ながら、ふるえる声で――こんにちは――と言った。すると、果して大きな犬はすぐ眼をさました。ブルドックだか土佐犬だか、耳が小さく頬《ほ》っぺたのひろがったその犬は、最初ものうそうに眼をひらいたが、みるみるうちに鼻皺《はなじわ》を寄せて、あつい唇をまくれあがらせた。
「――こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋でございます」
もうそのときは、叫ぶように、犬にむかって言った。怪しいもんではない、ということを知ってもらいたいために叫んだ。しかし犬にはわからなかった。う、う、と唸《うな》りながら起きあがると、毛を逆《さか》だてて、背中をふくらませて近寄ってきた。私が一《ひ》と足さがると二《ふ》た足寄ってくる。二《ふ》た足さがると三足《みあし》寄ってくる。私はもう声が出ない。重い桶《おけ》をになっているから自由もきかない。私が半分泣声になって叫ぶと、とたんに犬は肝《きも》をつぶすような吠《ほ》え声をあげて、猛然と跳びかかってきた。私は着物に咬みつかれたまま、うしろの菜園のなかに、こんにゃく桶ごとひっくりかえった。
「あら奥様、奥様、大変ですよう――」
そのときになって勝手口からとびだしてきた女中さんが、苦もなく犬の首輪をつかんで引き離しながら、奥の方へむかって叫んでいるのであった。
「こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋がお菜園をメチャメチャにしてしまいましたわ」
私もそれで気がついた。幸いこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]桶は水がこぼれただけだったが、私の尻餅ついたところや、桶のぶっつかったところは、ちょうど紫色の花をつけたばかりの茄子《なす》が、倒れたり千切《ちぎ》れたりしているのであった。
「なにさ、おやおや――」
玄関の格子戸《こうしど》がけたたましくあいて、奥さんらしい女の人がいそいで出てきた。
「まあ、大変なことをしてくれたネ。こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋さん、これはうちの旦那さまが丹精していらッしゃるお菜園だよ、ホンとにまァ」
奥さんは、私の足もとから千切《ちぎ》れた茄子《なす》の枝をひろいあげると、いたましそうにその紫色の花をながめている。私もほんとに申訳ないことをしたと思った。私も子供だけれど、百姓の子だから、茄子がこんなに花をつけるまでどんなに手数がかかるかを知っていた。
「どうもすみません」
お辞儀しながら、私は犬の方を見た。しかし犬はもうけろりとして、女中さんの足許《あしもと》に脚をなげだ
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