して、ものうさそうにそっぽむいているのであった。
「犬が怖かったもんですから」
そういうと、女中さんが、
「お前が逃げるからだよ、逃げなきゃ跳びつきなんかしやしない、ねえクマ、そうでしょ」
犬の頭を撫《な》でながら、そう言ったので、いつかこれも騒ぎをききつけて、庭の方から廻ってきていた四五人の子供たちのうちからクスクスわらう声がきこえた。男の子も女の子もいるようだったが、私はますますはずかしくなって顔をあげられない。
「三本、五本と、ああ、これも折れてる――」
奥さんは菜園のなかを、こごんで折れてしまった茄子をかぞえてあるきながら、
「ほんとに九本も、折っちまったじゃないか、折角《せっかく》旦那様が丹精なすってるのに」
「……………」
私は何度も「すみません」とお辞儀したが、それより他に言葉もめっからないので、しまいには黙って頭を低《さ》げていた。泣きだしたくなるのを我慢して。
「すむもすまんもありゃしないよ。こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]なんか要《い》らないんだから、さっさとおかえり……」
私は着物についた泥土をはらって、もう一度お辞儀した。すると、そのとき奥さんや女中さんのうしろで、並んでみていた子供のうちから誰れかが出てきて、
「オイ、徳永くん」
と耳許《みみもと》で云った。おどろいて私が顔をあげると、それが同級生の林茂だった。彼は黙って私の桶《おけ》や天秤棒《てんびんぼう》をなおしてくれ、それからくるりと奥さんの方へむきなおると、
「小母《おば》さん、すみません」
と云ってお辞儀した。林は口数の少ない子だから、それだけしか言わなかったが、それはあきらかに、私のために詫《わ》びてくれてるのだということが、誰にもわかった。
それで、こんどはいくらかおどろいたような奥さんの声が訊《き》いた。
「おや、この子、茂さんのお友達?」
私は林が何と答えてくれるだろうと思った。また犬の頭をなでている女中さんも、うしろにたってみている子供たちも、一緒に林の顔を見ていた。
「ええ」
すると林は、それだけだが、非常にはっきりと、顔をあげて言ったのだった。私はその瞬間、一ぺんに身体《からだ》があつくなってきて、グーン、グーン、と空へのぼってゆく気がした。
二
林は五年生のとき、私たちの学校へ入ってきた子だった。ハワイで生れてハワイの小学校にあがっていたが、日本に帰って勉強するために、お祖母さんと、妹と三人で、私が犬に吠《ほ》えられて茄子《なす》を折った邸《やしき》の、すぐ隣りの大きな家に住んでいた。
クラスのうちで一番|身体《からだ》が大きく、一番勉強もできたので、ずウッと級長をしていた。
林と私はそれまで一緒に遊んだりしたことはなかったが、いつもニコニコしている子だから嫌いではなかった。力の強い子で、朝、教室の前で同級生たちを整列させているとき、級長の号令をきかないで乱暴する子があると、黙って首ッ玉と腕をつかんでひっぱってくる。そんなときもやはりわらっていた。
林が私のために、邸《やしき》の奥さんに詫《わ》びてくれてから、私は林が好きになった。そして林が奥さんに言ったように、私達はほんとに友達になった。私が林の家へいって、林の妹と三人で「兵隊将棋」をしたり、百人一首をしたり、饅頭《まんじゅう》など御馳走《ごちそう》になったりしたことがあるが、たいていは林が私の家へくる方が多かった。だって私は妹の守《も》りをすることもあるし、忙がしいのだから、一緒になるにはそれより方法がないからだ。
ときどきは、私と一緒にこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]売りについてくることもあった。そして、
「よし、こんどはおれにかつがせろよ」
と言って、代ってこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]桶《おけ》をかつぐこともあったが、かつぐのはやっぱり私が上手で、林は百メートルを歩くと、すぐ肩が痛いと言ってやめた。
しかし林が一緒にこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]売りについてきてくれるので、どんなに私は肩身がひろくなったろう。第一に林はこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]売りを軽蔑するどころか、却《かえ》って尊敬しているので、もうどんな意地悪共が、手を叩いてはやしたって、私はヘイチャラである。
「ハワイって、外国かい?」
一緒に歩きながら、私達はよくハワイの話をした。林のお父さんも、お母さんもまだそこで大きな商店をやってるということだった。
「アメリカさ、太平洋の真ン中にあるよ」
フーン、と私は返辞する。地図で習ったことを思いだすが、太平洋がどれくらい広くて、ハワイという島がどれくらい大きいのか想像つかないからだった。
「どうして日本に戻ってきたの?」
「日本語を勉強するためにさ」
「ヘェ、じゃハワイでは何語を教わっていたんだい」
「英語さ」
私はますますおどろいた。
「じゃ、英語よめるんだネ」
「ああ、話すことだってできるよ」
私はとても不思議な気がして、林の顔を穴があくほどみた。そしてこの子が何でもない顔をしているんで、いよいよ不思議だった。
しかし林が英語が上手なのは真実だった。六年のとき、私達の学校を代表して、私と林は「郡連合小学児童学芸大会」にでたことがある。郡の小学校が何十か集って、代表児童たちが得意の算盤《そろばん》とか、書き方とか、唱歌とか、お話とかをして、一番よく出来た学校へ郡視学というえらい役人から褒状《ほうじょう》が渡されるのだった。そのとき私たちは、林が英語の本を読み、私が通訳するということであった。
読者諸君も、中学へあがられると、たぶん教わると思うが、ナショナルリーダーの三に「マンキィ、ブリッジ」(猿の橋)という課がある。手の長い猿共《さるども》が山から山へ、森から森へ遊びあるいて、ある豁川《たにがわ》にくると、何十匹の猿が手をつないで樹の枝からブラ下り、だんだん大きく揺れながら、むこうの崖にとびついて、それから他の猿どもを順々に渡してやるという話である。林はそれをもう本もみないでラクに英語で喋べるのであった。私は英語はよめないが、国語が得意だったし、お話が比較的上手だったから、先生がえらんだろうと思う。話の筋をよく暗記しておいて、林が一《ひ》と区切りする毎《ごと》に、私も本を見ないで通訳をした。
学芸大会では拍手|喝采《かっさい》だった。各小学校の校長先生たちや、郡長さん始め、県の役人なども沢山《たくさん》いるところで、私たちは非常に面目をほどこしてから、受持の先生に引率されて帰ってきたが、それから林と私はますます仲良しになった。
あるとき林の家へいって遊んでると、林が大きな写真帳をもってきて、私にみせたことがある。それはハワイの写真で、汽船が沢山ならんでいる海の景色や、白い洋服を着てヘルメット帽をかぶった紳士やがあった。その紳士は林のお父さんで、紳士のたっているうしろの西洋建物の、英語の看板のかかった商店が、林の生れたハワイの家だということであった。
「ぼくが生れないずッとまえ、お父さんもお母さんも、労働者だったんだよ」
林はそう言って、また写真帳の他のところをめくってみせた。そこには、洋服は洋服だが、椰子《やし》の木の生えたひろい畑の隅に、跣足《はだし》で柄の長い鍬《くわ》をもった林のお父さんと、傍《そば》に籠《かご》をもってしゃがんでいるお母さんとがならんでいた。
「とても働いたんだネ、働いて金持になって、今のお店を作ったんだ」
「フーム」
「いまお父さんは市の収入役してるよ、アメリカ人でも、フランス人でもお父さんのところへ相談にくるんだよ」
「フーム」
私は写真帳を見ながら、すっかり感心してしまった。そして林が何故《なぜ》、私のこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]売りを軽蔑しないか、それがわかった気がした。
働いてえらい人間にならねばならない。日本ばかりでなく、外国へいってもえらい人間にならねばならないと思った。
それからはこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]桶《おけ》をかついでいても、以前のようにひどく恥ずかしい気がしなくなった。――
小学校を卒業してから、林は町の中学校へあがり、私は工場の小僧になったから、しぜんと別れてしまったが、林のなつかしい、あの私が茄子《なす》を折って叱られているとき――小母《おば》さん、すみません――と詫《わ》びてくれた、温《あたた》かい心が四十二歳になってもまだ忘れられない。
その後、私はねっしんに勉強して小説家になった。林茂君もたっしゃでいれば、どっかできっとえらい人間になっていてくれるだろう。いま一度逢って、あのときのお礼を言いたいものだ。
底本:「徳永直文学選集」熊本出版文化会館
2008(平成20)年5月15日初版
底本の親本:「風」桜井書店
1941(昭和16)年8月20日
入力:門田裕志
校正:仙酔ゑびす
2008年12月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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