をあと戻りして逃げてしまう。
こんなとき、私が、
「ああおれはこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋だよ。それがどうしたんだい」
と言えればよかった。そしたら意地悪共も黙ってしまったにちがいない。ところが不可《いけ》ないことには私にその勇気がなかったので、もう二つの桶をあっちの石垣やこっちの塀かどにぶっつけながら逃げるので、うしろからは益々手をたたいてわらう声がきこえてくる……。
そんな風だから、学校へいってもひとりでこっそりと運動場の隅っこで遊んでいたし、友達もすくなかった。学問は好きだったから出来る方の組で、副級長などもやったことがあるが、何しろ欠席が多かったから、十分には勤まらない。先生はどの先生も私を可愛がってくれたし、欠席がつづくと私の家へ訪ねてきてくれたりした。しかし私には同級生の意地悪共が怖い。意地悪ではない同級生たちさえ意地悪に見えてきて、学問と先生を除けば、みんな怖かった。
ところが、あるときこんなことがあった。
もうすぐ夏になる頃の、天気のいい日曜日だった。私は朝からこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]桶をかついで、いつものように屋敷の多い住宅地を売ってあるいていたが、あるお邸《やしき》で、たいへんなしくじりをやってしまった。
そのお邸は石垣のうえにある高台の家で、十ばかりの石段をのぼらねばならぬ。石段をのぼると大きな黒い門があって、砂利をしいた道が玄関へつづいている。左の方はひろい芝生《しばふ》つづきの庭が見え、右の方は茄子《なす》とか、胡瓜《きゅうり》を植えた菜園に沿うて、小さい道がお勝手口へつづいている。もちろん私はお勝手口の方へその小さい菜園の茄子や胡瓜にこんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]桶をぶっつけぬように注意しながらいったのであるが、気がつくと、お勝手口の入口へ、大きな犬がねているのであった。黒白|斑《まだ》らの、仔馬ほどもあるのが、地べたへなげだした二本の前脚に大きな頭をのっつけ、ながい舌をだしたまま眠っている。――
「今日は、こんにゃく[#「こんにゃく」に傍点]屋でございます……」
私はそう言いたいのだが、うまく声が出ない。こいつが眼をさましたらどうしよう? しかし黙っていては女中さんは出てこぬし、こんにゃくは売れない。私は勇気をだして、犬の顔ばっかり見ながら、ふるえる声で――こんにちは――と言った。すると、果して
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