あります。遠く国外に去って、自国の人々を眺めなおしたイプセンは、その怯懦な国民性にたいして嘲りと諷刺とを投げつけずにいられなかったのでありましょう。だが、彼自身は、こういう批評にたいして自己弁護を試みまして、「なぜ人々は、この脚本を詩として読むことができないのだろう」と、最前申上げたノラの場合と同じようなアポロジイを発表しておりますが、たとえノルウエ人が自分の姿をペエル・ギュントのなかに見出したとしても、それは作者の罪ではなくて、イプセン自身はいつも言うとおり、誰よりもまず自分のために、自分自身の治療と浄化のために筆をとっていたというほうが正しいのかもしれません。ノルウエ人の性癖の暗い一面は、イプセンの心のなかにも芽を吹いていた、彼は、その誤れる欲望と感情とに打ち克つために、みずからを戒める鏡としてペエルの姿を見つめたのかもしれません。ペエルは言うまでもなくブランドの対蹠人であり、反対概念であります。ブランドは、行手をさえぎるあらゆる障害をうち破って、肉親の屍をさえ乗り越えて目標に突進する、意志の強い、怖れというものを知らない人間で、生涯「汝自身に忠実であれ」という信念をふりかざしていたのにたいして、ペエル・ギュントは「汝自身を享楽せよ」という信条のもとに人生をさまよい歩きながら、どこにも安住の地を見出せなかったエゴイストであります。ブランドが「全か無か」を標榜して、いつも退路を断ちながら進んだのに反して、ペエルは、いつでもうしろのドアを明け放しておく卑怯者であったのです。ちょうど、ゲエテがファウストとメフィストフェレスに二つのことなる自我を描いているように、ブランドとペエルとは、イプセンの性格の両極を意味するものであり、彼の二つの分身であります。ノルウエの観客は、「ブランド」の台辞の一行ごとに、「かくのごとくあれ」というサボナロレスクな叱※[#「口+它」、第3水準1−14−88]の声を聴くとともに、一方「ペエル・ギュント」の一場一場から、これがお前の姿だという嘲笑の声を聴きのがさなかったに相違ありません。そして、今度、帝劇で上演される「ペエル・ギュント」の舞台から、ノルウエ人ならぬわれわれもまた、これがお前の現実の醜い姿だというイプセンの戒めの言葉をうけとるに相違ないのです。今度の演出は、少年時代を青山さん、壮年期を土方さん、老年のペエルを小山内先生という分け方で
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