も社会の注目の的となった時事問題に肉迫していったかと申しますと、彼は非常な新聞愛読者だったそうであります。当時は、電報だの電話だの輪転機などという文明の利器がはじめて応用されて、新聞が非常な活躍を始めた時代でありますが、当時のモダンな人々について申しますと、彼らがどれほどの新聞読破力をもつかということが、その人の人間学、世間学の深さをはかる標準となっていたのだそうで、その標準の正しさを裏書きしているのが、実にイプセンであります。彼のミュンヒェン時代を知っている古老の話によりますと、その町のカフェ・マクシミリアンという喫茶店の窓の上に新聞をうず高く積み上げて、そのなかに埋っているようなイプセンの姿をよく見かけたということであります。後年クリスチャニヤに帰ってからも、イプセン老人は、頑強に面会謝絶を押し通したそうですが、しかし、毎日正午になると、悠然としてウェストミンスタア・ホテルに現われて、一杯のビールを命じ、外国新聞を取り寄せて、二時間というもの欠かさず読みふけった、さらに六時になると、もう一度、イプセンはそこへ現われて、ピョルテルというウィスキーの一種を命じ、今度は自国の新聞に読みふけった、ことに裁判所の記事に眼をとめたということであります。七十歳になったイプセンは、述懐の詞《ことば》を洩らして、長い年月、外国を渡り歩いたものは、その心の奥底では、どこにも安住の地を見出せない、故郷すら他国であるといっておりますが、彼は実にコスモポリタンであり世界人であった。このコスモポリタンとしての生涯が、しかし、作家としてのイプセンに非常な寄与をしていることは、すでに申上げたとおりであります。
思わず話が脇道へそれましたが、さて、今度、「復活の日」にかわって、帝劇の檜舞台にかけられる「ペエル・ギュント」について、ごく輪郭だけを申上げて話を終ることにいたします。
この作も、すでに言うとおり外国で書かれたので、――一つ前の「ブランド」とおなじく南イタリーに滞在したころの制作に属します。作者が知人のペエテル・ハンゼンに宛てた手紙のなかで、「ブランドの後には、必然的にペエル・ギュントが来るはずだ」と言っているのでもわかるとおり、この二つの作は密接な関係をもつもので、イプセンの抱懐する思想を裏と表とから叙述した、広い意味の二部作でありまして、両々相俟って作者の世界観の全貌を示すもので
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