なかった。
「貴女は今|彼処《あそこ》の店で買物をなさった様ですねえ」
「致しましたが、夫れがどうだと被仰《おっしゃ》るんです」
女は少しも驚かないのみか、寧ろ待ち望んででも居た様な落着方であった。併し、気の故《せい》か彼女の美しい輝《かがやき》の顔に、不安の影が颯《さっ》と通った様に思えた。
「いや、別にどうしたと云う訳でもありませんが……これは甚《はなは》だ失礼な事かも知れませんが、少しお間違いをなさって被居《いらっしゃ》るんじゃないかと思ったもんですから、一寸お尋ねして見たいと思った丈けなんです」
しどろもどろではあったが、貴婦人に対する礼儀は失って居ない積《つも》りで云ったのであった。
併し之れ丈け云って了うと、今迄持って居た探偵眼を誇りたいと云う気分や、こうした美しい婦人の秘密の鍵を握って居ると云う好奇心や、何か奇蹟的に邂逅しそうな卑劣な野心などは、此時全く姿を潜《ひそ》めて了って、依然不安と後悔の恐ろしい様な予感とで心は乱れて居た。
「私が何か不都合でもしたと被仰るんですか」
彼女は忽《たちま》ち興奮した。険しい眼には挑戦の意気込みが現われた。こうなると、先刻《さっ
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