方へ突き付けた。夫れには彼の姓名と、其脇に住所が記されてある許《ばか》りで、勿論刑事とも警視庁とも書かれて居ない。
「刑事だって巡査だって、何もしない者に疑いを懸けたり名誉を傷けたりする権利があるもんですか」
 女は既《も》う泣声ではなかった。こう云い乍ら半※[#「巾+白」、第4水準2−8−83]に伏せた眼を上げた。彼は此時、本能的とでも云った様に其名刺を引込めた。此時、彼女も彼も殆んど同時に、今や町を巡廻して来る一人の巡査を眼の前に見付け出した。
「あの、もし」彼女はこう云い乍ら巡査の方へ歩み寄るのであった。
 風が街上の塵埃《じんあい》を小さな波に吹き上げて、彼等二人を浸《ひた》し乍ら巡査の方へ走って消えた。彼も此|埃《ごみ》と共に消えたかった。否、何もかもない。彼女が巡査に云い告げて居る間に、滅茶苦茶に逃げるより外に無いと思った。彼は反対の方向へ顔を向けた。体が泳ぎ出し始めた。と、「逃げたら猶《なお》悪い」と、心の奥に何かが力ある命令を発して彼を留まらせた。動悸《どうき》が早鐘《はやがね》の様に打って頭の上まで響いて行った。
「あのもし」
 彼女が再びこう云うのを聞いた。「ああ既
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