ういけない。迚《とて》も堪らない」彼の心は泣き叫んだ。躯《からだ》を藻掻《もが》く様に振動させた。
 巡査は刻々近寄って来る。六尺、五尺、四尺、ああ遂《つい》に立留った。女は媚笑《こび》を見せて巡査に雲崩《なだ》れ掛りそうな姿勢をしながら云い出すのであった。
「一寸お願い致します。此処に居る偽刑事の人が、私を附け廻して仕方がありませんの……」
 巡査は鋭い眼を二人に投げた。彼は其眼の光よりも女の云い方の恐ろしさに呆然《ぼうぜん》とした。全くどうして好いのか判《わか》らなくなった。彼の眼の先へ恐ろしい獄舎の建物さえ浮んだ。
 女は巡査の答など待たないでどしどし饒舌《しゃべ》り始めた。
「私、今彼処の店へ参りまして、少し許り買物を致しましたんですの。そして此処迄出て参りますと、此人が追蒐《おいか》けて来て、私が不都合な事をしたって取調べようとするんですの。私は何もそんな覚えはありませんし、こんな人から調べられる理由はないんですの。夫れが立派な刑事さんとか巡査さんとか云うんなら何ですけど、此人は只云い掛りでも云って、お金でも取ろうと云うんでしょう……」女の流暢《りゅうちょう》な言葉は上手の演説よりもなだらかに滑《すべ》り出て、息をも継がせない勢であった。夫れに構わず巡査は彼の方へ向き直った。
「君は一体何者だッ」巡査は訊《き》くのでなくて叱るのであった。慄《ふる》え切った彼には直ぐに返事が喉《のど》へ塞がった。
「初め私立探偵だなどと云ってましたが、了いには警視庁の刑事だなんて人を脅《おど》かして名刺を見せましたけど、刑事とも何とも書いて無いんですの。偽刑事が人を罠《わな》に陥《おとしい》れようと云う悪企《わるだく》みなんですわ……」
 彼女が横取りして喋舌り続けた。彼は忍術か何かで消えたかった。其儘《そのまま》消えて無くなって了っても好いと思った。
「貴女に訊いて居るんじゃない」巡査は女を窘《たしな》めた。而して再び同じ問いを彼に発した。
「私は……私は別に何でもないんです。只|彼《あ》の店に行って偶然此お方を見たんです……」
「偶然だなんて皆嘘なんです。私が停車場で省線電車を降りた時から、私の後を跟《つ》け覗《ねら》って来たんです。そして探偵だの刑事などと云って……」
「貴方に訊いて居るんじゃない。……君は一体何者だと云うんだ」巡査は二人にこう云った。
 彼は女の後を
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