監獄部屋
羽志主水

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【テキスト中に現れる記号について】

《》:ルビ
(例)政府《おかみ》

|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)算段|計《ばか》り

[#]:入力者注 主に外字の注記や傍点の位置の指定
(例)ビクビク[#「ビクビク」に傍点]
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          (一)

 同じ持場で働いて居る山田という男が囁いた。
「オイ、何でもナ、近けえ内に政府《おかみ》の役人の良い所が巡検に来るとヨ」
「エッ、本当かイ夫《そ》りゃア、何時《いつ》だってヨ」
「サア、其奴《そいつ》ア判ら無えがナ、今度ア今迄来た様な道庁の木《こ》ッ葉《ぱ》役人たア違うから、何とか目鼻はつけて呉れるだろう、何時も何時も胡麻化されちゃア返《けえ》るんだが、今度ア左様《そう》は往《い》くめエ、然し之で万一《もし》駄目だとなりゃ、此世は真暗闇だぜ」
「左様サ、何しろ役人位えにアビクビク[#「ビクビク」に傍点]為《し》ねえ悪党揃だからナ、今迄の木ッ葉役人は瞞《だま》かされたり、脅かされたり、御馳走されたりで追ッ払われたんだが、東京から大所が来ると成りゃ、今度ア、其手じゃア往かねえ、何しろ一日でも早く来て、俺ッちの地獄の責苦を何とかして呉れなけりゃ、余命《いのち》ア幾何《いくら》もありゃしねえや」
「マア、厳重《しっかり》吟味して圧制な……」
 突然《だしぬけ》に近い所で、巨《でか》い声がした。
「何奴《どいつ》だア、何ヨグズグズ[#「グズグズ」に傍点]吐《こ》きゃアある、土性ッ骨ヒッ挫《くじ》かれねエ用心しろイ」
 帝釈天《たいしゃくてん》と綽名《あだな》のある谷口という小頭《こがしら》だ。
「仕事の手を緩《ゆる》めて怠ける算段|計《ばか》り為《し》てけツかる、互《たげえ》に話ヨ為て、ズラかる[#「ズラかる」に傍点]相談でも為て見ろ、明日ア天日が拝め無えと思え」
 実際ウカウカ[#「ウカウカ」に傍点]して居ると容赦なく撲ったり、蹴倒したりするから、ダンマリで又労役に精を疲らす、然し鳥渡《ちょっと》鵜の目鷹の目の小頭、世話役の目の緩むのを見て同様の会話が伝わる、外の組へも、又其外の組へも、悪事じゃ無いが千里を走って、此現場中へ只《たっ》た一日で噂は拡まる。

          (二)

 現場といっても、丸ノ内のビルジング建築場でも、大阪|淀屋橋《よどやばし》架換《かけかえ》工事場でも、関門連絡線工事場でも無い。往年《さきのとし》、鬼怒川《きぬがわ》水電水源地工事の折、世に喧伝《けんでん》された状況《ありさま》を幾層倍にして、今は大正の聖代に、茲《ここ》北海道は北見《きたみ》の一角×××川の上流に水力電気の土木工事場とは表向《おもてむき》、監獄部屋の通称《とおりな》が数倍判りいい、此世からの地獄だ。
 此所《ここ》に居る自分と同じ運命の人間は、大約《かれこれ》三千人と云う話だが、内容《なかみ》は絶えず替って居る。仕事の適否とか、労働時間とか、栄養とか、休養とかは全然無視し、無理往生の過激の労働で、人間の労力を出来る丈多量に、出来る丈短時間に搾《しぼ》り取る。搾り取られた人間の粕《かす》はバタバタ死んで行くと、一方から新しく誘拐されて、タコ[#「タコ」に傍点]誘拐者に引率されてゾロゾロやって来る。
 三千人の内には、自己の暗い過去の影から逐《お》われて自棄《やけ》で飛込んで来るのもあるが、多くは学生、店員、職工の中途半端の者や、地方の都会農村から成功を夢みて漫然《ぶらり》と大都会へ迷い出た者が、大部分だから、頭は相応に進んで居て、理窟は判って居ても、土木工事の荒仕事には不向だ。加之《そこへ》圧搾機械の様な方法で搾られるんでは、到底耐ったもので無い。朝、東の白むのが酷使《こきつかい》の幕明で、休息時間は碌になく、ヘトヘト[#「ヘトヘト」に傍点]になって一寸でも手を緩め様ものなら、午頭馬頭《ごずめず》の苛責の鉄棒が用捨《ようしゃ》なく見舞う。夕方ヤット辿り着く宿舎は、束縛の点では監獄と伯仲《おッつかつ》でも、秩序や清潔の点では到底《てんで》較べもので無い。監獄部屋の名称は、刑務所の方で願下げを頼み込むに相違ない。
 搾り粕の人間の窶《やつ》れ死は、まだまだ幸福な方で、社会―裟婆―で云えば国葬格だ。未だ搾り切れずに幾分の生気を剰《あま》して居る人間は、苦し紛《まぎ》れに反抗もする、九死に一生を求めて逃亡も企る。而も其結果は恒常《いつも》、判で捺した様に、唯一の「死」。其死の形式は、斬殺、刺殺、銃殺は寧《むし》ろお情けの方で、時には鬱憤晴し、時には衆人《みんな》への見せしめに、圧殺、撲殺、一寸試しや焚殺も行われる。徒党を組んだ失敗者は時に一緒に十五、六人|鏖殺《おうさつ》されたこともある。
 此世界では斯る男性的な、率直な方法が、何の障碍《こだわり》も無く行われるので詐欺、放火、毒殺などの女性的な、迂曲《まわりくど》い方法は流行《はや》らぬ、此世界では良心や温情は罪悪である、正義や涙は篦棒《べらぼう》である。腕力、脅威が道徳で、隠忍、狡滑が法律である。殺人、傷害、凌辱、洞喝が尋常茶飯事で、何の理由も無く平気で行われ、平気で始末される、淫売窟に性道徳が発達しない如く、斯る殺人公認の世界には探偵小説が生じ得ない。

          (三)

 山田という男は、早稲田に居る内、過激思想にかぶれ、矯激な行動をやったので半途で抛り出された上、女の事から自棄になって、死ぬ積りで飛込んで来た丈に中々負けては居ないが、力づくでは何ともならぬ。思想の宣伝で行《や》っ付けてやるのだと予々《かねがね》言って居て、随分自分も御説教を聞かされたものだ。夫でも虐待には熟々《つくづく》やり切れぬと見えて、
「来るッてエなア何時だろうナ、なまじ聞かされた丈に待遠うで仕方がねエ」
「御同様サ、今日聞き込んだが、二、三日前に這入《へえ》って来たバツク[#「バツク」に傍点]の(東京|下《くだ》りのハイカラ)生《なま》ッ白《ち》れエ給仕上りの野郎に聞いたんだが、議会で政府のアラ捜しより能の無え議員が、大分鋭く監獄部屋の件で内務大臣に喰って掛ったそうな、責任塞げにでも、役人に調査材料を集めに派遣《よこ》すのだとサ。何《いず》れ議会の開期中だから、左様遠くもあるめエ、然しネ、オイ、斯様《こんな》一目瞭然の事実を山の鬼共はどう糊塗《ごまか》す積かナア、一寸思案が付かねエがナア」
「奴等は一筋縄でも十筋縄でも行かねエ悪党の寄集りだから、何《いず》れ直《すぐ》に御辞儀は仕まいが、俺などが来て随分|鼓吹《こすい》宣伝した為に第一此方等が今迄の人間見てエに黙らされちゃア居ねエ、思う存分役人の前でスッパ抜いてやるから、何と遣繰《やりくり》したって、どう辻褄が合うものかヨ、隣の飯場に居る玉の井の淫売殺しをやった木村ッてノッポが居るだろう、彼奴も誰が何と云おうと喋舌《しゃべ》り立ててやると言ってたサ、四、五人が先棒になって喋舌れば、後は皆元気付いて口が開《き》けるだろう、左様すりゃ蜂の巣を突ッついた様なもんだ、二百や三百の上飯台《うわはんだい》の悪党共がジタバタしたって何様なるもんか、生命を投出してりゃ何アニ!」
 被害者の希望、歓喜は、虐待者の憂慮である。人々の希望が日を逐うて潮《うしお》の如く高まると共に、上飯台の連中や幹部連の凄惨な顔色は弥々《いよいよ》深くなる。只でも油断のない眼は耀《ひかり》を増し、耳は益々尖って来る。
「又今日も親方連は会議室へ集ってるが、念入と見えて、可成長くかかってるな。一番性の悪い、残酷な閻魔の親爺《おやじ》が、此二、三日の気の荒さッちゃ無えそうだ、だが独りぼッちになると時々溜息突いてるって話だ、余ッ程気になるんだろう」
「夫りゃア奴等だって悪い事たア百も承知の上だから気にもなりゃア、溜息も突こうサ……黙ッた黙ッた帝釈天だ」
「ヤイヤイ、此奴等ア又怠けやがるナ、何に言ッてやがったんだ、エエ、オイ(と山田に向って)生公《なまこう》、何の相談をしやがったんでイ」
「ウン、何も話なんか仕やし無えや」
「何ヨ、手前は一体生意気だぞ、オダ上げると焼きヨ入れてやるぞ、夫から手前達、今日は特別に早引けで五時限りにして遣《や》るから、其跡で持場や、部屋の居廻りヨ念入りに片付けて掃除をしろ、夫からモ一つ言って置くがナ、手前達、物を言うにゃア、ようく後前《あとさき》ヨ考えてぬかせ、ウッカリ顎叩くと飛んでも無え間違《まちげえ》になるぞ、後で、吠え面《づら》かかねエ様にしろ、大事《でえじ》に使やア一生ある生命だア、勿体《もってえ》なくするな」
 呶鳴続け、睨め付けてノソリノソリ往って了うと、
「一生ある生命には違《ちげえ》ねえが、其一生が平均三ヶ月てんだ、晩《おそ》かれ早かれで同じ事だ」
「然しあんなに駄目を押して、予防線《くぎ》をさすッてエなア何様《どう》せ例《いつ》もの洞喝《おどかし》だろうが――奴等も大部こたえたらしいナ」
「オイオイ、夫れよりや早引けの掃除ッてなア、弥々《いよいよ》明日になったんだぜ」
「それサ、己《おれ》も先刻《さっき》から其奴を言おうと思ってたんだ、何しろ難有《ありが》てエ難有てエ、ア、助ったナア」
 と歓喜の色は一同《みんな》の顔に漲《みなぎ》った。

          (四)

 山の幹部連中は前の晩から十何里|距《へだた》った汽車の着く町迄|出迎《でむかえ》に出かけて居る、留守は上飯台の連中が、取片付けに吾々を追廻し乍らも、口では夫れとなく、裏切りをすれば生命は無いぞと脅すのを忘れなかった。然も眉間の間には心配と反抗との混交《まじ》った凄味を漂わせて居る。一方吾々下飯台の方は、幾月にも斯様《こん》なお手柔《てやわらか》なこきつかわれ方に遭遇《でくわ》さないので、却《かえっ》て拍子抜がして、変てこだが遉《さすが》に嬉しさは顔や科《こなし》に隠されぬ。殊に山田のハシャギ方は随分目につくので、何かなければ良いがと思わせる。
 午前十一時頃、見張の者から巡察官の一行が二里程先の「五本松」の出端に見えたとの報せは、殆んど万歳を喚起《よびおこ》す程の感激を生じた。
「エ、オイ、あと一時間だ。タッタ一時間だ」
 中には髯だらけの顔の中に光ってる双の眼《まなこ》に涙をたたえ、夫れが葉末の露と髯に伝わる、という光景もある。
 緊張の一時間、希望の六十分は直《すぐ》経過して、約四、五十人の出迎人に護衛された、官憲一行の馬車が到着した。
 脚本「検察官」の幕切は、国王の権威を代表した官憲一行の到着を知らせる大礼服の士官が現われる所だったと記憶する。今は二十世紀、茲《ここ》は日本国だけに厳《いか》めしい金ピカで無いから、何れも黒のモーニングに中折帽で、扮装《いでたち》丈では長官も属官も区別はつかぬ。山の主任連はフロックに絹帽子《シルクハット》乃至《ないし》山高で、親方連も着つけない洋服のカラーを苦にし乍ら、堅い帽子を少し阿弥陀《あみだ》に被ってヒョコスカ歩廻っては叱言《こごと》を連発して居る、大分恐入ってる風に見える。
 やがて、彼是《かれこれ》十人|計《ばかり》の一行は主任の先導で、休憩室に宛てられた事務所の二階へ歩を移した、其時に順になったので、役人の親玉と次席と其次位は判別できた。隊長は案外見立のない瘠せ男だが、遉《さすが》に怜悧想《りこうそう》な、底光りのする眼付であった、次席に六尺近い、いい恰幅の、一寸関取と言いたい様な体格の所へ、真黒な頬髯を蓄えてる丈に、実に堂々たる偉丈夫だ、只左の中指に太い印形付きの黄金指環が変に目についた、其次の男は中肉中背の若い男だが、体の科《こなし》から、互の会話振から一人で切廻したがる才子風の所がアリアリと現われて居る。其後からは秩序もなく六、七人が随いてゆく。何れも威張れる所で精々威張り貯めて置こうという、マアマア罪のない連中らしい。
 午餐《ひる》がどんな御馳走だったか判らぬが、何れ小賄賂の意味で、出来る丈の珍味を並べたことだろう。今度は流石に今迄の様に変な女を御給仕に出すことは差控えたらしい。
 午後一時に総員広場に
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