れてはたまらない。木元は、まだ、そのつづきがあるぞとばかり、満洲の話をする。
『――それで叔父きの奴は、貴様はとても内地や支那にはむかない、よし、俺が手続をしてやるからアメリカへ行けと云うんだ。はじめは、南米と云ったな。でも、南米じゃあまりひどかろうと云うのでね、とうとう北米合衆国へやって御出なすったのサ。』
『木元君の云うことは、法螺が九〇パーセントとしても、現に実物の君がここにいるんだからな。』
『僕は宿を探さねばならんでな、木元。どこか、この辺に君の心あたりの家があるかね?』
 私は、むきになって木元を小突いた。
『おっ、宿、宿。すっかり三沢君と話しこんで、忘れるところだった。ともかく、一応出よう。』
 木元は、すっかり正気にかえって、ウィスキーの空き罎を紙屑籠の中へ投りこむと、立ちあがった。
『この辺はべたに借間があるんで、心配はいらんさ。こーッと、五十七丁目だから、次の通りへ出てみるかね。』
 大股に歩いて行く彼には、もはや三沢のところでとぐろを巻いた姿はなかった。十月末というのに、外套なしの姿は、いくらか淋しかったが、あれだけ飲んだウィスキーの気配もなく、しゃっきりしたものだった。それから、低声でこうつけ足した。
『――三沢の奴、あれだけ噛ましておけば、当分大丈夫だ。あれはね、これから重要な役割をはたす男なんだ。あれで、君、みかけによらぬ大金を持ってるんだよ――』
 なんのことかわからないが、この数学の教師はあんがい長いメートルで、人を計ってみているのかも知れない。私が『Furnished Room』のサインをみつけて、部屋を交渉しているあいだ、彼は黙ってそれを聞いていたが、終ると、うなずいて、さっさと歩き出した。ともかくも、私は東五十六丁目の――番地エリック方へ陣取って、鞄をあずけ、一週間分の間代を前金で払い、鍵を受取って、木元の跡を追いかけた。
 彼は、軒なみ同じような作りの、石段と鉄柵の家を探すように頭をかがめて歩いていたが、その一軒の、石段の横腹に『鶴亀』とサインの出ているところへ出ると、にわかに元気づいたふうに、横の地下室へはいる鉄格子を靴の尖で蹴ってはいった。プーンという醤油の匂いが鼻をつく。奥からは皿小鉢の日本的な物音がする。
『はいりたまえ、こっちへ。』
 木元は横手の食堂から、手をひろげて招じ入れた。この男の手は、きわめて特長的なものだ
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