ツて、
子供のやうなその口はとンがらせてゐる、
彼女は幾つも私の近くに、皿を並べて私に媚びる。
それからこんなに、――接唇《くちづけ》してくれと云はんばかりに――
小さな声で、『ねえ、あたし頬《ほつぺた》に風邪引いちやつてよ……』
[#地付き]シヤルルロワにて、一八七〇、十月。
[#改丁]
[#ページの左右中央]
附録
[#改ページ]
失はれた毒薬(未発表詩)
ブロンドとまた褐《かち》の夜々、
思ひ出は、ああ、なくなつた、
夏の綾織《レース》はなくなつた、
手なれたネクタイ、なくなつた。
露台《※[#濁点付き片仮名ワ、1−7−82]ルコン》の上に茶は月が、
漏刻《(ろうこく)》が来て、のんでゆく。
いかな思ひ出のいかな脣趾《くちあと》
ああ、それさへものこつてゐない。
青の綿布《めんぷ》の帷幕《とばり》の隅に
光れる、金の頭の針が
睡つた大きい昆虫のやう。
貴重な毒に浸されたその
細尖《ほさき》よ私に笑みまけてあれ、
私の臨終《をはり》にいりようである!
[#改ページ]
後記
私が茲《(ここ)》に訳出したのは、メルキュル版千九百二十四年刊行の「アルチュル・ランボオ作品集」中、韻文で書かれたものの殆んど全部である。たゞ数篇を割愛したが、そのためにランボオの特質が失はれるといふやうなことはない。
私は随分と苦心はしたつもりだ。世の多くの訳詩にして、正確には訳されてゐるが分りにくいといふ場合が少くないのは、語勢といふものに無頓着過ぎるからだと私は思ふ。私はだからその点でも出来るだけ注意した。
出来る限り逐字訳をしながら、その逐字訳が日本語となつてゐるやうに気を付けた。
語呂といふことも大いに尊重したが、語呂のために語義を無視するやうなことはしなかつた。
★
附録とした「失はれた毒薬」は、今はそのテキストが分らない。これは大正も末の頃、或る日小林秀雄が大学の図書館か何処かから、写して来たものを私が訳したものだ。とにかく未発表詩として、その頃出たフランスの雑誌か、それともやはりその頃出たランボオに関する研究書の中から、小林が書抜いて来たのであつた、ことは覚えてゐる。――テキストを御存知の方があつたら、何卒御一報下さる様お願します。
★
いつたいランボオの思想とは?――簡単に云はう。パイヤン(異教徒)の思想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。
さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。
[#ここから3字下げ]
繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務《つとめ》はすむといふものだ、
[#ここで字下げ終わり]
つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。
所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!
云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰《(あたか)》も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。
もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。
★
終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
[#地付き]〔昭和十二年八月二十一日〕
底本:「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫、講
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