v想だ。彼はそれを確信してゐた。彼にとつて基督教とは、多分一牧歌としての価値を有つてゐた。
さういふ彼にはもはや信憑すべきものとして、感性的陶酔以外には何にもなかつた筈だ。その陶酔を発想するといふこともはや殆んど問題ではなかつたらう。その陶酔は全一で、「地獄の季節」の中であんなにガンガン云つてゐることも、要するにその陶酔の全一性といふことが全ての全てで、他のことはもうとるに足りぬ、而も人類とは如何にそのとるに足りぬことにかかづらつてゐることだらう、といふことに他ならぬ。
[#ここから3字下げ]
繻子の色した深紅の燠よ、
それそのおまへと燃えてゐれあ
義務《つとめ》はすむといふものだ、
[#ここで字下げ終わり]
つまり彼には感性的陶酔が、全然新しい人類史を生むべきであると見える程、忘れられてはゐるが貴重なものであると思はれた。彼の悲劇も喜劇も、恐らくは茲に発した。
所で、人類は「食ふため」には感性上のことなんか犠牲にしてゐる。ランボオの思想は、だから嫌はれはしないまでも容れられはしまい。勿論夢といふものは、容れられないからといつて意義を減ずるものでもない。然しランボオの夢たるや、なんと容れられ難いものだらう!
云換れば、ランボオの洞見したものは、結局「生の原型」といふべきもので、謂はば凡ゆる風俗凡ゆる習慣以前の生の原理であり、それを一度洞見した以上、忘れられもしないが又表現することも出来ない、恰《(あたか)》も在るには在るが行き道の分らなくなつた宝島の如きものである。
もし曲りなりにも行き道があるとすれば、やつと※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルレーヌ風の楽天主義があるくらゐのもので、つまりランボオの夢を、謂はばランボオよりもうんと無頓着に夢みる道なのだが、勿論、それにしてもその夢は容れられはしない。唯※[#濁点付き片仮名ヱ、1−7−84]ルレーヌには、謂はば夢みる生活が始まるのだが、ランボオでは、夢は夢であつて遂に生活とは甚だ別個のことでしかなかつた。
ランボオの一生が、恐ろしく急テムポな悲劇であつたのも、恐らくかういふ所からである。
★
終りに、訳出のその折々に、教示を乞うた小林秀雄、中島健蔵、今日出海の諸兄に、厚く御礼を申述べておく。
[#地付き]〔昭和十二年八月二十一日〕
底本:「中原中也全訳詩集」講談社文芸文庫、講
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