真珠の首飾り
ZHEMCHUZHNOE OZHERELJE
――クリスマスの物語――
レスコーフ Nikolai Semyonovich Leskov
神西清訳
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【テキスト中に現れる記号について】
《》:ルビ
(例)印象《そいつ》
|:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号
(例)ねえ|お前《マ・シェール》!
[#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定
(数字は、JIS X 0213の面区点番号、または底本のページと行数)
(例)※[#ローマ数字1、1−13−21]
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※[#ローマ数字1、1−13−21]
さる教養ある家庭で、友人たちがお茶のテーブルをかこみながら、文学談をやっていた。やがて仕組みとか筋とかいった話になる。なぜわが国では、そうした方面がだんだん貧弱でつまらなくなって行くのだろうと、口々に慨歎する。わたしはふっと思い出して、亡くなったピーセムスキイの一風変った意見を披露した。彼によると、そうした文学上の不振は、まず第一に鉄道がふえて来たことと関係がある、けだし鉄道は商業にとってこそ有益だが、文芸にはむしろ害をなす、というのである。
「今日の人間はずいぶん方々を旅行してまわるが、ただそれが手っとり早い暢気な旅なのだ」と、ピーセムスキイは言うのである、「だから別にこれという強烈な印象ものこらないし、とっくり観察しようにも、相手の物もなければ暇もないから、――つまり上っ滑りになってしまう。だから貧弱になるわけだ。ところが昔はモスクヴァからコストロマーまで、替馬なしで乗りとおすなり、乗合馬車で揺られて行くなり、宿場宿場で乗り換えて行くなりしてみれば、――とんだもうろう馭者にぶつかることもあろうし、図々しい相客に出くわすことも、はたごの亭主が悪党で、おさんどんが鼻もちのならぬ不潔もの、といった悲運に際会することもあるわけで、たんと色んな目にあえるというものである。おまけにとうとう堪忍ぶくろの緒が切れたとして(たとえばスープの中に何か変てこなものがはいっていたのでもいい――)、そこでそのおさんどんを怒鳴りつけてでもみたまえ。向うはその返礼に、十そう倍もの悪態を投げ返してくることになって、その印象たるやちっとやそっとでは抜け出られぬ深刻なものがあろうことは、まずもって請合いである。しかも印象《そいつ》がぐつぐつと胸
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