の諸式に荘厳をつくし、きれいにそろった『たえなる』の唱歌を聴くことは、彼らにとって最も高尚でも最も清らかでもある慰めの一つなのだ。唱歌隊がうたうと聞くと、そこには忽ち町の人口の半ばちかくが押し寄せるのだが、とりわけ熱心なのは商家の若者たちである。番頭衆も子供たちも若い衆も、大小さまざまの工場の職工も、それのみか当の主人たちまでが細君同伴で、われもわれもと一つ教会へ押しかける、それがみんな、せめて表の昇り口にでも割りこめさえしたらいい、いや焼けつくような炎暑の日だろうと、ぴりぴりするような酷寒の日だろうと、窓の下でさえ結構がまんするが、とにかく音程がいかに歌いこなされるか、そして天馬空をゆく如きテノールが気まぐれ千万な前打者《フォルシラーク》をいかにやってのけるかを、しかと聴きとどけずには気の済まぬ連中なのである。
イズマイロフ家の檀那寺には、聖母の宮入りを祝う祭壇があったので、さてこそこの祭日の前の晩、あたかもフェージャの一件がおこなわれた丁度その時刻には、町じゅうの若者がその寺に集まっていたのであったが、やがて騒々しい人波をなして退散しながら、さすがは音に聞こえたテノールだけあって天晴れな歌いぶりだったとか、おなじく有名なバスでありながらどこそこでトチッたとか、口々に評定しあうのだった。
ところで、みんながみんな声楽の批評に夢中になっていたかというと、必らずしもそうではなくて、群集の中にはほかの問題に興味をもった連中もあったのである。
「だがね皆の衆、あのイズマイロフの若女房にも、変てこな噂があるじゃないか」と、イズマイロフの店さきに差しかかろうとするころ口火を切ったのは、ある商人がその蒸汽じかけの製粉所のためペテルブルグから引っ張って来た若い機関士で、――「世間の噂じゃ、あの女はわが家の番頭のセリョーシカと明けても暮れても乳くり合ってるというじゃないか……」
「そいつはもう、隠れもない語り草さ」と青もめんで表を張った毛皮外套の男が応じた。――「現に今晩だって、お寺にや姿を現わさなかったじゃないか。」
「どうしてお寺どころかい? あの淫乱ものと来た日にゃ、すっかり性根が腐っちまって、神さまも、良心も、人目も、何ひとつ怖いものなしだよ。」
「おい見ろよ、あかりがついてるぜ」と機関士が、鎧戸のすきから漏れる光の筋を指しながら言った。
「ひとつ覗いて見るんだね、一たい何をしてるのか」と、二三人の声が合わさった。
機関士は仲間の肩二つを足場に伸びあがって、やおら鎧戸に眼をあてがったと思うととたんに頓狂な声をあげた。――
「おいおい、みんな! 首をしめてるぞ、おい、首をしめてるぞ!」
そう言いざま、もろ手で必死に鎧戸をたたきはじめた。十人ほどの同勢がそれにならって、窓にとびついて拳をふるいはじめた。
みるみるうちに群衆は数を増して、先刻われわれの見たようなイズマイロフ家の包囲が現出したのである。
「あっしが見たんです、この眼でしかと見とどけたんです」と機関士はフェージャの死体について証言するのだった、――「この子をベッドの上に組み伏せて、二人して首をしめていたんです。」
セルゲイはその晩ただちに拘束され、カテリーナ・リヴォーヴナは上の部屋へ押しこめられて、見張りが二人ついた。
イズマイロフの家は、とても堪らぬほど寒かった。ストーヴに火の気はないし、ドアも片時として閉まっているひまがなかった。物見だかい連中がぎっしり群れをなして、入れ替り立ち替り押しかけたのである。一同がやって来る目あては、お棺のなかに寝ていたフェージャと、もう一つ、幅のひろい掛布で蓋ごとすっぽり蔽われている大きな棺を見ることだった。フェージャの額ぎわには、聖像を描いた繻子のきれが載っていて、頭蓋骨を解剖したあとに残った赤い傷痕を隠していた。警察医が解剖し結果、フェージャは窒息死をとげたものと判明したが、やがて死体の前へ引きだされたセルゲイは、おそろしい最後の審判のことや、悔い改めぬ者たちにくる刑罰のことを、坊さんがやおら説きはじめると、忽ちさめざめと涙をながして、フェージャ殺しを正直に白状に及んだばかりでなく、埋葬の手続きもとらずに彼が埋めてしまったジノーヴィー・ボリースィチを掘り出して頂きたいと願いでた。カテリーナ・リヴォーヴナの良人の死体は、乾いた砂の中に埋められていたのでまだ腐れ切ってはいなかった。そこで引っぱり出して、大きな棺に納めた。この二つの犯罪の共謀者としてセルゲイが挙げたのはほかならぬ若い内儀《かみ》さんの名だったので、世間はふるえあがってしまった。カテリーナ・リヴォーヴナはいくら訊問されてもただもう『知らぬ存ぜぬ』の一点ばりだった。そこでセルゲイに対決させて、彼女の口を割らせることになった。男の自白をききおわると、カテリーナ・リヴォーヴナは呆れて物も言えぬといった風に彼をみつめたが、さりとて怒りの色は見えず、やがて平気な顔でこう言った。――
「この人がそれを言う気だったのなら、何もわたしが頑ばることはありません。いかにも殺しました。」
「どうしてそんなことをしたのか?」と訊かれると、
「この人のためにです」と、うなだれているセルゲイを指して答えた。
犯人は別々に収監され、そして世間の注目と憤慨の的になったこの兇悪事件は、すこぶる手っとり早く判決がくだった。二月の末、セルゲイと、第三級商人の寡婦カテリーナ・リヴォーヴナの二人は、刑事裁判所で刑の申渡しを受けたが、それによると、まずその居住する町の市場で笞打ちを受けたのち、二人とも徒刑地へ送られることになった。三月のはじめ、凍《い》てつくような寒い朝、刑吏はカテリーナ・リヴォーヴナのむき出しになった白い背中の上に、定めの数だけの青むらさきのミミズ腫れをしるしづけ、つづいてセルゲイの両肩にもきまった本数の鞭をふるった上、彼の美しい顔に徒刑の焼印を三つおしたのである。
そうした処刑のあいだ、世間の同情はどうしたわけだか、カテリーナ・リヴォーヴナよりも遥かに多くセルゲイの上に集まった。全身あぶら汗と血にまみれて、彼は黒い処刑台から下りるとき何べんか前へのめったが、カテリーナ・リヴォーヴナは落着きはらって下りてきた。ただ厚地の肌着と、ごわごわした囚人外套が、なま傷だらけの自分の背中にへばり着かぬように気をくばっていただけのことだった。
監獄病院で、生まれ落ちた赤んぼを渡された時でさえ、彼女は『ふん、もう用無しだわ!』と言ったきり、くるりと壁の方へ寝がえりを打って、うめき声一つ、泣きごと一つ立てるではなしに、ごつごつした板どこに胸をぶつけるように倒れたのだった。
※[#ローマ数字13、89−5]
セルゲイとカテリーナ・リヴォーヴナの加わった囚人隊の出発は、春といってもほんの暦の上だけのことで、太陽がまだ下世話にいうとおり、『ぎらぎらしちゃ来たが、まだぽかぽかして来ねえ』頃のことになった。
カテリーナ・リヴォーヴナの生んだ子の養育は、ボリース・チモフェーイチの従妹にあたる例の婆さんにまかされた。罪の女の殺された良人の嫡男と認められた以上、この子は今やイズマイロフ家の全財産を相続すべき唯ひとりの人物となったわけである。カテリーナ・リヴォーヴナはこれを頗る満足に思って、しごく冷静な態度で赤んぼを引渡した。情熱的すぎる女の愛はえてしてそうしたものだが、子どもの父親にたいする彼女の愛は、いささかたりとも子どもの上には移らなかったのである。
とはいえ、彼女にとっては今やこの世に、光明も暗黒も、不幸も幸福も、わびしさも喜びもなかった。彼女にはなんにも分らず、誰ひとり愛するでもなければ、自分を愛する気もしなかった。彼女はただもう囚人隊の出発の日を待ちこがれ、そうなれば可愛いセリョーシカに再会する折もあろうかと思うばかりで、子どものことなんかてんで念頭になかったのだ。
カテリーナ・リヴォーヴナの希望は裏ぎられなかった。重たそうな鎖をひきずり、顔に焼印をおされたセルゲイは、彼女と同じ組になって、監獄の門をあとにしたのである。
一たい人間というものは、どんな忌わしい境遇に陥っても、なんとかしてそれに馴染もうとするものだし、どんな境遇にあっても、できるだけ自分の無けなしの喜びを求める力を失わぬものである。ところがカテリーナ・リヴォーヴナにとっては、順応などという面倒な手数はてんから入らなかった。セルゲイとの再会がかなった――彼さえいてくれれば、徒刑地への道中も幸福に光りかがやくのである。
カテリーナ・リヴォーヴナが縞の麻袋に入れて持って出た金目のものは、ほんの僅かだったし、現金に至っては尚更のこと少なかった。しかもそれをみんな、まだニジニ・ノーヴゴロドにも着かない先に、護送の下士どもにばらまいてしまった、道中をセルゲイと肩をならべて歩かせてもらい、闇の夜には囚人駅舎の寒い廊下の隅っこに彼と抱きあって小一時もいさせてもらう――その目こぼしにあずかるためにである。
ただし、カテリーナ・リヴォーヴナの焼印つきの情夫は、どうしたものかひどくつれない態度を見せるようになった。何か言いかけては、ぶつりと黙りこんでしまう。こっそり逢う瀬を楽しみたいばかりに、彼女が飲まず食わずで我慢して、ともしい財布の底から虎の子の二十五銭玉を呉れてやっているのに、セルゲイは大して嬉しい顔を見せないばかりか、却ってこう言い言いしたものだった。
「なあお前さん。こんな廊下の隅っこへ俺とべたつきに出てくるよか、その下士にやった銭を俺によこしたらいいになあ。」
「たった二十五銭しかやりゃしないのよ、セリョージェンカ」と、カテリーナ・リヴォーヴナが言訳をする。
「二十五銭は金のうちにゃはいらないのかい? その二十五銭という奴を、お前さんだいぶ道々拾っていたっけが([#ここから割り注]訳者註。投げ銭を拾うのである[#ここで割り注終わり])、ばらまいた数だって、もう相当なもんだぜ。」
「だから、セリョージャ、ちょいちょい逢えたじゃないの。」
「ふん、飛んだこった。さんざ辛い目をした挙句に、ちっとやそっと逢えたところでくそ面白くもねえじゃないか! 自分の命《いのち》を呪うのが本当だ、逢曳どころの騒ぎじゃねえぜ。」
「でもセリョージャ、あたしは平気だよ。お前さんに遭えさえすりゃあ。」
「ばかなはなしさ」とセルゲイは答える。
そうした返事を聞くたびに、カテリーナ・リヴォーヴナは思わず唇を、血のにじむほど噛みしめる。さもなければ、ついぞ泣いたことの無い彼女の眼に、無念さ怨めしさの涙が夜更けの逢う瀬の闇にまぎれてあふれ出る。けれど彼女はじっと腹の虫をおさえて、じっと口に蓋をして、われとわが心をあざむこうと努めるのだった。
そんなふうな新しいお互いどうしの関係のまま、二人はニジニ・ノーヴゴロドに着いた。ここで彼らの囚人隊は、やはりシベリヤをめざしてモスクヴァ街道からやって来た別の一隊と落ち合った。
それは大人数の一隊だったが、色々さまざまな連中がどっさりいる中で、婦人班にすこぶる附きの別品《べっぴん》が二人いた。一人はヤロスラーヴリから来たフィオーナという兵隊の女房で、その大柄な身丈といい、ふさふさした黒い渦まき髪といい、悩ましげな鳶色の眼のうえにさながら何か摩訶ふしぎなヴェールのように濃い睫毛がかぶさっているところといい、実になんとも素晴らしい派手な感じの女だった。もう一人は十七になるきりりとした顔だちの金髪娘で、白い肌にはうっすらとバラ色が射し、口もとは小さく締まり、若々しい両の頬にはエクボがあって、金色に光る亜麻色の捲毛が、囚人用の縞入り頭巾のすきから額へちらちらこぼれかかる、といった風情だった。この娘をその隊ではソネートカと呼んでいた。
美人のフィオーナは、柔和なしまりのない気性の女だった。彼女の隊で、その肌を知らない男はまずいないと言っていいくらいだったが、さて首尾よく彼女をせしめたところで大して恐悦がる男もなければ、彼女が次の男に全く同じ首尾をさせるところを見せつけられても、誰ひとり悲観する者もなかった。
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