「うちのフィオーナおばさんは観音さんみたいなものさ。誰の気もそらさねえからな」と、囚人たちは異口同音にそんな冗談口をたたくのだった。
 ところがソネートカになると、話ががらりと違う。
「ありゃあウサギの性だよ。手のまわりをぬらりくらりするばかりで、いつかな手に入らねえや」という評判である。
 ソネートカにはちゃんと好みがあり、一歩も譲れぬ註文があった。それも只の註文ではなく、頗るきびしい註文と言えるかも知れない。色恋を生《なま》のまま皿に盛って出したのでは、彼女はいつかな食指を動かさない。ぴりりと舌にくる薬味――つまり苦労や犠牲が、ぜひとも入用なのだ。それに引きかえフィオーナは、例のさばさばしたロシヤ流儀まる出しで、寄ってくる相手に『うるさいわね』などと剣突を食わすことさえ第一面倒くさく、自分が女一匹だということのほかは何一つ念頭にないのだった。こうした女性は、集団強盗とか囚人隊とか、またはペテルブルグの社会民主主義団体とかいった仲間では、殊のほか珍重されるのである。
 さて右のような二人の女性が、セルゲイやカテリーナ・リヴォーヴナと一つ隊の仲間として出現したことは、後者《カテリーナ》にとって悲劇の種になったのだった。

      ※[#ローマ数字14、94−2]

 一つに合わさった囚人隊はニジニ・ノーヴゴロドをたって、カザンをさして進みはじめたが、そうしてまだ三日とたたぬうちから、セルゲイが目に見えて兵隊の女房フィオーナの機嫌をとりだし、めでたく肘鉄砲を食わずに済んだ。悩ましげな眼をした美女フィオーナは、持前の気の好さから、今日まで誰にも悩みを与えなかったと同様に、セルゲイをも悩まさなかったのである。三度目か四度目の宿営地に着いた日、カテリーナ・リヴォーヴナは薄暗くなるかならなぬうちから例の袖の下を使って、可愛いセリョージェチカとの逢曳の手筈をととのえ、一まず横にはなったが眠らずにいた。当番の下士がはいって来、そっと自分の小脇をつつき、『おい早く行け!』と耳うちしてくれるのを、今か今かと待ち構えていたのだ。戸が一度あいて、どの女だかすばやく廊下へ姿を消した。もう一ぺん戸があいて、やがてまた板どこから跳び起きてやはり案内人のあとについて消え失せた女囚があった。暫くするとやっとのことで、カテリーナ・リヴォーヴナのすっぽりかぶっている外套が、ぐいと引かれた。若い女は、囚人たちの脇腹でつるつるに磨きのかかった板どこから素早くとび起き、外套を肩に羽織って前に立っている案内人をつついた。
 カテリーナ・リヴォーヴナは廊下を歩いて行きながら、ただ一箇所ほの暗い灯明皿の明りがにぶく照らしている場所で、二タ組だか三組だかの連中に突きあたったが、遠見にはそこに人がいる萌しなんぞさっぱり見えないのだった。カテリーナ・リヴォーヴナが男囚の監房の前に通りかかると、戸についている覗き窓から、忍び笑いの声がきこえた。
「ええ、やっていくさる」と、カテリーナ・リヴォーヴナの案内人は腹だたしげに呟いて彼女の肩をつかむと、隅の方へぐいと一突きし、そのまま向うへ行ってしまった。
 カテリーナ・リヴォーヴナが手さぐりすると、片手には外套とあご鬚がさわった。もう一方の手には火照った女の顔がさわった。
「誰だ?」と、セルゲイが小声できいた。
「おや、お前さん何してるの? 誰が相手なの?」
 カテリーナ・リヴォーヴナは暗がりの中で恋仇の頭巾を引っぱがした。向うはするりと横へ抜けると、一目散に逃げだしたが、廊下の中途で誰かにぶつかって、でんぐり返しを打ったらしい。
 男囚の監房からどっと笑い声がおこった。
「わるもの!」とカテリーナ・リヴォーヴナはささやいて、男の新しい女の頭から引っぱがしたばかりの布の端で、セルゲイの顔を打った。
 セルゲイは手を振り上げようとした。けれどカテリーナ・リヴォーヴナはひらりと身がるに廊下を駈け抜けて、じぶんの監房の戸に取りついた。男囚部屋の笑い声は、彼女の後ろからまたもやどっと揚ったが、それがあんまり高かったので、ちょうど灯明皿の前に無念無想のていで佇んで、じぶんの長靴の先っぽに唾を吐きかけていた番兵が、思わず首をもたげて、
「シーッ!」と叱咤したほどだった。
 カテリーナ・リヴォーヴナは黙って横になると、そのまま朝までじっとしていた。彼女は自分に向って、『もうあの人には愛想がつきたわ』と言って聞かせたかったが、そのじつ内心では可愛さ恋しさが一そうつのる思いだったのだ。あの人の手のひらがあいつ[#「あいつ」に傍点]の首の下のあたりでわなわなと顫えていた、のこる片手はあいつの火照った肩を抱きしめていた……そんな光景が、追っても追っても目蓋を去らなかった。
 因果な女はとうとう泣きだして、ああ今この時こそあの手のひらが自分の首の下のへんにあってくれればいい、そして残る片手が自分のヒステリックに波うつ肩をじっと抱きしめてくれればいいと、われにもあらず心に念ずるのだった。
「まあ、とにかくさ、あの頭の布だけは返しておくれよ」とあくる朝、兵隊の女房のフィオーナが彼女を揺りおこした。
「おや、じゃあお前さんだったの?……」
「後生だから返しておくれよ。」
「けどね、なんだって仲を裂くような真似をするんだい?」
「仲を裂くなんて、とんでもないよ。今さらあたしに、好いた惚れたの沙汰があるもんかね! 尖んがらかることは、ちっともないさ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナはちょっと思案したが、やがて枕の下から昨夜ひっぺがした頭巾をとり出すと、ぽいとそれをフィオーナに投げてやり、壁の方へ寝返りをうった。
 それで気が軽くなった。
「チェッ」と彼女はひとりごちた、――「あんな盥《たらい》に目鼻みたいな女のことで焼餅をやくなんてさ? さっさと失せやがれ! 自分をあんな奴と並べて考えるさえ汚らわしいよ。」
「ねえ、カテリーナ・イリヴォーヴナ、いいですかい」と、あくる日の道中でセルゲイが話しかけた、――「あっしは何もお前さんに対してジノーヴィー・ボリースィチじゃねえんだし、またお前さんにしたところで、今じゃもう大のれんの内儀さんじゃないんだ。そこんとこをよく考えてな、後生だからあまりつんつんして貰いますまいぜ。いくら角を生やしたって、ここじゃもう売物にゃならねえからなあ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナはそれには何とも答えず、その後一週間ほどは、セルゲイと言葉もかわさず眼も見かわさず、ただその傍を歩いていった。そこまで面子《メンツ》をつぶされながら、それでも彼女は気位だけは持ちつづけてセルゲイとの間にはじめて持ちあがったこの痴話げんかに、あえてこっちから和解の第一歩を踏みだす気にはなれなかったのだ。
 さて、そんなふうにカテリーナ・リヴォーヴナが、セルゲイに腹を立てているうちに、セルゲイは例の色白のソネートカを相手に、むだ口を叩いたりふざけたりしはじめた。『おおわが女王さま』とか何とか言って最敬礼するかと思えば、にやにや笑って見せたり、出会いがしらにぐいと抱きしめようと隙をうかがったりする。カテリーナ・リヴォーヴナはそんな様子を見るにつけ、胸の中はますます煮えくり返るばかりだった。
「そろそろ仲直りをした方がいいのじゃあるまいか?」とカテリーナ・リヴォーヴナはつまずきながら、しかも足もとを見やりもせずに、ただもう思案にふけるのだった。
 だがこっちから先に折れて出るのは、今となってはせんだってより以上に、自尊心がゆるさない。そうこうするうちに、セルゲイのソネートカに対するじゃらつきようは益※[#二の字点、1−2−22]執拗になって、もはや衆目のみるところ、ウナギのようにぬらりくらりするばかりで手に入らない難攻不落のソネートカも、とみに軟化の色を見せはじめた。
「ねえ、お前さんいつぞやあたしのことを怨んだっけが」と、フィオーナがカテリーナ・リヴォーヴナに言った。――「一たいなんの悪い事をあたしがしたかね? あたしのことなんか、あれっきりもうさばさばしたもんだけど、今度のソネートカにゃ油断しないがいいよ。」
『くだらない自尊心なんか鬼に食われちまえ。今日こそ是が非でも仲直りしなけりゃあ』とカテリーナ・リヴォーヴナは決心して、なんとか巧い仲直りのきっかけはないものだろうかと、そればかり思いつめるのだった。
 この難局から救いだしてくれたのは、意外にもセルゲイその人だった。
「イリヴォーヴナ!」と、彼は小休止のとき彼女を呼んだ。――「今夜ちょいと来てくれないか。話があるんだ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは黙っていた。
「おやおや、まだ怒っているのかい――じゃ来ないのかい?」
 カテリーナ・リヴォーヴナはこれにも返事をしなかった。
 だがセルゲイのみならず、その日カテリーナ・リヴォーヴナの様子を見ていた連中の目には、そろそろ営舎が近くなりだすとともに彼女がしきりに古参の下士につきまといはじめて、とうとうしまいに、娑婆の人びとの投げ銭を拾いあつめた十七銭を、その下士に握らせるのが見てとれた。
「また溜ったらもう十銭あげるわよ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは一生けん命だ。
 下士は袖口の折返しに小銭をしまって、
「よしよし」と言った。
 セルゲイは、この談判がめでたく終了するのを見とどけると、咳ばらいをして、ソネートカに目くばせした。
「ああ、おれの大事なカテリーナ・リヴォーヴナ!」と彼は、営舎の昇り口のところで彼女を抱きしめながら言った。――「なあみんな、なんぼ世界が広くたって、この女に及ぶようなのは一人もいないぞ。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは、嬉しさのあまり赤くなったり息をはずませたりだった。
 夜が更けたかと思うと、そっと戸があいたので、彼女はいきなり跳び起きた。わくわくしながら、暗い廊下にセルゲイを両手でさぐった。
「おれのカーチャ!」と、ぎゅっと抱きしめざまセルゲイが言った。
「あ。あんた、憎らしい人!」と、涙ごえでカテリーナ・リヴォーヴナは答えると、そのまま両の唇で吸いついた。
 番兵が廊下を行ったり来たりしていて、ふと立ちどまって長靴の先に唾をする。そしてまた歩きはじめる。戸のなかでは疲れた男囚たちがいびきをかき、鼠がストーヴのかげで鵞ペンをかじる。コオロギがわれ劣らじと声をはりあげて歌っている。カテリーナ・リヴォーヴナは、まだうっとりとわが身の幸に酔っている。
 だがやがてその陶酔にも倦きがきて、散文が聞えだすのはけだし止むをえない。
「死にそうに痛むんだよ。くるぶしの附け根から膝がしらのとこまで、骨ががくんがくんて唸りやがるんだ」とセルゲイが、廊下の隅の床べたにカテリーナ・リヴォーヴナと寄り添って坐りながら、ぐちをこぼす。
「どうしたらいいだろうねえ、セリョージェチカ?」男の外套の裾にもぐりながら、彼女が心配そうにきく。
「まあ仕方があるまいな、カザンの病院に入れてでももらうほかにゃ。」
「まあ、縁起でもない、どうしたのさ、セリョージャ?」
「だって仕様がないじゃないか、今にも死にそうに痛むんだものな。」
「じゃあ、お前さんが後に残って、あたしだけ追っ立てられて行くのかい?」
「どうも仕方がないさ。こすれるんだ、それこそ猛烈にこすれるんだよ、まるで鎖がまるごと骨の中へ食いこみでもするようにな。せめて毛の長靴下でも穿いてたらいいんだがなあ」と、やや間合いを置いてセルゲイが言いだした。
「長靴下だって? そんならあたしのとこにまだあるよ、ねえセリョージャ、新しいのがさ。」
「いいや、それにや及ばねえよ!」と、セルゲイは答えた。
 カテリーナ・リヴォーヴナはそれなりもう何も言わずに、すばやく部屋の中へ姿をかくすと、寝板のうえの自分の背負い袋をかきまわして、また急いでセルゲイのそばへ取って返した時には、厚手の青い色をした旅行用の長靴下のけばけばしい側筋のはいったものを、一足ぶらさげていた。
「やあ、これでもう大丈夫だ」とセルゲイは、カテリーナ・リヴォーヴナと別れしなに、彼女の最後の靴下をとりあげながら言った。
 カテリーナ・リヴォーヴナはしんから嬉しく
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