なって、じぶんの寝板へ戻ってくると、ぐっすり眠ってしまった。
眠った彼女の耳にはきこえなかったが、じつは彼女が戻ってきて暫くすると、ソネートカが廊下へ出ていって、そろそろ夜の白みだす頃に、こっそり帰ってきたのである。
それはカザンまであと二丁場という晩の出来事だった。
※[#ローマ数字15、102−8]
寒々と暗雲の垂れこめた日が、時おり思いだしたように吹きつける風と雨を伴なって、雪をさえちらつかせながら、息づまるような営舎の門をあとにした囚人隊を、剣もほろろに出迎えた。カテリーナ・リヴォーヴナはかなり元気な様子で出て来たが、隊伍に加わったかと思うと、たちまち全身わなわなと顫えがついて、まっ蒼な顔になってしまった。眼のなかはまっ暗やみになり、節々はうずきだして、今にもへたへたと崩折れそうだった。カテリーナ・リヴォーヴナの前に立っているソネートカのはいていたのは、例のけばけばしい側筋《わきすじ》のはいった、まがい方ないあの青い毛の靴下だったのである。
カテリーナ・リヴォーヴナは、まったく生きた心地もないままで、その日の道中に出でたった。ただその両眼は裂けんばかりにセルゲイをみつめて、片時もその顔からそれなかった。
最初の小休止のとき、彼女は落着きはらってセルゲイのそばへ寄っていって、『恥しらず』とささやいた拍子に、思いもかけずその顔へ真向から唾を吐きかけた。
セルゲイは彼女に躍りかかろうとしたが、はたの者に引きとめられた。
「覚えてろ、この女《あま》め!」と彼は言って唾をふいた。
「だがどうも大したもんだぜ、あの女、おめえなんかにビクともしねえや」と、囚人たちがセルゲイをからかう中で、一きわ賑やかな笑い声を立てたのはソネートカだった。
ソネートカが一役買って出たこのちょいとした一幕は、ぴったり彼女の好みに合ったのである。
「なんにしろこのままじゃ済まねえから、そう思ってろよ」と、セルゲイはカテリーナ・リヴォーヴナに捨てぜりふを言った。
悪天候のもとの強行軍にへとへとになって、カテリーナ・リヴォーヴナは次の営舎の板どこの上で、傷ついた胸をいだきながら、その夜ふけ不安な夢路をたどっていた。したがって彼女は、女囚部屋へ二人の男がはいって来た気配に気がつかなかった。
彼らがはいってくると、ソネートカが寝板から身をもたげて、無言のままカテリーナ・リヴォーヴナを指して見せると、またごろりと横になって、外套にくるまってしまった。
と、その瞬間、カテリーナ・リヴォーヴナの外套がぱっとその頭にかぶさったと思うと、目の粗いシャツ一枚の彼女の背なかへ、二重により合わせた縄のずんぐりした先っぽが、百姓のくそ力いっぱいに、ぴしりぴしりと振りおろされはじめた。
カテリーナ・リヴォーヴナは、きゃっと悲鳴をあげたが、なにせ外套をすっぽり頭にかぶせられているので、声はさっぱり聞えない。その両肩には屈強な囚人が坐りこんで、両腕をがっしり抑えていた。
「五十」――やっと数え終ったその声は、誰が聞いても紛うかたないセルゲイの声だった。そこで深夜の訪問者たちは、ぱっと戸のそとへ掻き消えてしまった。
カテリーナ・リヴォーヴナは頭の蔽いを払いのけて、はね起きた。誰もいなかった。ただついその辺で、誰かが外套を引っかぶりながら、さも小気味よげにヒッヒと笑っているだけだった。カテリーナ・リヴォーヴナにはそれがソネートカの笑い声だとわかった。
こうなってはもう、通り一ぺんの口惜しさではなかった。その刹那カテリーナ・リヴォーヴナの胸に煮えくり返った情念も、無辺無量のものがあった。彼女は無我夢中で前へつき進んで、とっさに抱きとめたフィオーナの胸へ、おなじく無我夢中で倒れかかった。
そのむっちりとした胸は、ついこのあいだカテリーナ・リヴォーヴナの不実な情人に、みだらな歓楽を満喫させたものに違いなかったが、今や彼女はほかならぬその胸の上で、じぶんのやるせない歎きを、泣いて泣いて泣きつくそうというのである。まるで母親にすがる子どものように、愚かなだらけきった恋仇にぴったり抱きついているのである。今ではもう二人は同格だった。二人とも同じ捨値をつけられて、あっさり抛りだされたのだ。
二人は同格なのだ!……行きあたりばったりに身をまかせるフィオーナと、愛慾の悲劇を身をもって演じつつあるカテリーナ・リヴォーヴナとが!
とはいえカテリーナ・リヴォーヴナは、もうちっとも口惜しくなかった。すっかり泣ききってしまうと、彼女は石のような無表情な顔になって、木彫り人形さながらの落着きすました物ごしで、点呼に出る支度をはじめた。
太鼓がタッ・タララッ・タッと鳴ると、営庭へ囚人たちがなだれを打って出てくる。足に鎖のついた者、足に鎖のつかない者。セルゲイもいる、フィオーナもいる。ソネートカもいれば、カテリーナ・リヴォーヴナもいる。分離派信者が、ユダヤ人と一つ鎖につながっているかと思えば、ポーランド人とタタール人の二人三脚もある。
みんな集合してしまうと、やがてどうにか隊伍らしいものを組んで、さて出発だ。
ゆううつ極まる光景である。世間からはもぎ離され、前途に明るい望みの片影をすら抱くことのかなわぬ人間の一団が、どろ道の冷たい黒いぬかるみの中に、足をとられとられ動いて行くのだ。あたり一面、見るも怖ろしいほどのあさましさだ。涯しもないぬかるみ、灰色の空、濡れそぼった柿の裸木、そのひろがった枝々には羽根を逆だてた鴉のむれ。風がうめく、いきりたつ、かと思うと吼えたてる、わめいて過ぎる。
聞くだけでもう魂がかきむしられる思いのするその地獄のような風音《かざおと》こそ、あたり一帯のむざんな光景に睛《ひとみ》を点ずるものなのだが、その音のなかからは、聖書にあるヨブの妻の忠告が響いてくるようだ、――『汝が生まれし日を呪いて死ねよ』と。
この言葉に耳をかたむける気になれず、これほどの悲境に陥ってもなお死ぬという考えに心をそそられるどころか却って恐怖を感じるような人は、その吼えたける声を消すために、何かもっとおぞましいものに一生けんめい縋りつかなければなるまい。そうした事情を、単純な人間は実によく心得ているものだ。そこで彼らは、持前の素朴な野獣性を思うさま発揮して、馬鹿のかぎりをつくしだす自分を嘲弄し、他人を愚弄し、人情を冷笑する。それでなくても大して柔和な人間でもなかった彼らは、ここに至って二層倍も兇暴になるのだ。
* * *
「どうですね、おかみさん? あい変らず奥方さまには、ご機嫌うるわしくいらせられますかい?」――そんな鉄面皮な挨拶をセルゲイがカテリーナ・リヴォーヴナに向ってしたのは、ゆうべ泊った村がびしょ濡れの丘のかげにだんだん隠れて、ついに囚人隊の眼界から没し去った頃だった。
そう言うと、彼はくるりとソネートカの方へ向き直って、じぶんの外套の裾で彼女をくるんでやり、高らかな裏声でこんな歌をうたいだした。
[#ここから3字下げ]
小窓のなかの 小暗いところで
亜麻色あたまが ちらつくよ。
まだ起きてるね わが悩みの種
眠られないのか にくいやつ。
裾ですっぽり くるんでやろうよ
人目にかからぬ 用心に。
[#ここで字下げ終わり]
そう歌いながらセルゲイは、ソネートカを抱きしめて、隊のみんなの目の前で、音たかだかとキスをした。……
カテリーナ・リヴォーヴナはその一部始終を、見ていたとも言え、見なかったとも言える。彼女は歩いてこそいたけれど、実はもう生きた心地もなかったのだ。みんなは彼女をつついたり小突いたりして、セルゲイがソネートカを相手にいちゃついている有様を、見せようと節介を焼きだした。彼女はいい笑い物にされたのである。
「そっとしておおきよ」とフィオーナは、つまずきつまずき歩いてゆくカテリーナ・リヴォーヴナを隊の誰かがからかおうとする度ごとに、そう言って彼女をかばうのだった。「お前さんたちには分らないのかい、この悪党め、この人がひどく加減のわるいことがさ?」
「てっきり、おみ足がずぶ濡れになったせいだろうな」と、若い男囚がまぜっ返した。
「当りめえよ、歴乎とした商家のお生まれでいらせられる。おんば日傘でお育ちあそばしたんだぞ」と、セルゲイが合の手を入れる。
「そりゃ勿論、せめてあのおみ足に、もそっと温々《ぬくぬく》した靴下でもお穿かせ申したらなあ、そうなりゃあ、これほどのお悩みもあるめえにさ」と彼が言葉をつづけた。
カテリーナ・リヴォーヴナは、はっと目が覚めたみたいだった。
「まむし、毒へび!」と、彼女は堪忍ぶくろの緒を切らして口ばしった、――「笑いたいならいくらでもお笑い、まむしめ!」
「いいや、俺あね、おかみさん、何も笑うのなんのって言う段じゃないんだぜ。ただねこのソネートカの奴がとても上等な靴下を売りたがってるんでね、そこで一つ、おかみさんそれを買ったらどうだろうと、こう思っただけなんだがね。」
おおぜいしてドッと笑った。カテリーナ・リヴォーヴナは、ゼンマイ仕掛の自動人形みたいに歩いていた。
天気はますます悪くなって来た。空をおおっている灰色の雲から、水気の多いぼた雪が落ちはじめて、地面にふれるかふれないうちに融けては、底なしのぬかるみを益※[#二の字点、1−2−22]ふかくした。とうとう行く手に、どんよりと鉛いろをした帯が見えはじめた。その向う側は見わけがつかない。この帯がつまり、ヴォルガ河だった。ヴォルガの上には風が吹き※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]って、ゆっくりと大きな口をあけてもちあがる暗い波を。前へ押したり後ろへ引いたりしている。
全身ぬれ鼠になって、ふるえあがった囚人の一隊は、のろのろと渡し場にたどりついてそこで停止して渡し船を待った。
これもずぶ濡れの黒い渡し船がやって来た。乗組員の案内で、囚人たちが乗りこみはじめる。
「なんでもこの渡し船にや、誰かヴォートカをこっそり売ってくれる奴がいるって話しだぜ」と、ある男囚が言いだしたのは、大きなぼた雪がさかんに降りかかる渡し船が岸をはなれて、そろそろ荒れだした河の面に立つうねりのまにまに、揺れはじめた頃だった。
「そうさな、さしずめこんな時こそ、ちょいと一杯やるなあ悪くあるめえな」とセルゲイは応じて、ソネートカの御機嫌とりに、カテリーナ・リヴォーヴナをいじめる手をゆるめず、――「どうだい、おかみさん、昔のよしみに免じて、一ぺえ買っちゃあ貰えまいかね。まあそう吝《しみ》ったれるなってことよ。昔やそれでも、おれの色じゃねえか。おたがい大あつあつだった頃にや、仲よく遊び※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]りもしたし、秋の夜長をしんみり語り明かしたこともあるじゃねえか。お前さんの身うちの誰かれを、お寺さんの厄介にならずに、二人であの世へお送り申したこともある仲じゃねえか。」
カテリーナ・リヴォーヴナは、寒くって全身がくがく震えていた。いや、びしょ濡れの着物をとおして骨までも沁みこむ寒さばかりでなくて、カテリーナ・リヴォーヴナの体内には、何かもっと別の現象までが起っていた。頭が燃えるようにかっかとしていた。瞳孔はひろがって、ぎらぎらする光をちらつかせながら、じいっと浪のうねりを見つめていた。
「ヴォートカはいいわね、あたいも御相伴したいわ。まったく、こう寒くっちゃやりきれない」と、ソネートカが鈴を振るような声を出した。([#ここから割り注]訳者註。ソネートは鈴の意[#ここで割り注終わり])
「ねえ、おかみさん。おごれよ、なんだい!」と、セルゲイが食いさがる。
「なんぼなんでも、そりゃ阿漕だよ!」とフィオーナが思わず口走って、咎めるように頭をふり立てた。
「あんまりやると男がさがるぜ」と、ゴルジューシカという少年囚が、兵隊の女房に助太刀をする。
「ほんとだよ。お前さんとこの人との相対《あいたい》ずくなら、何を言おうと勝手だろうがね、なんぼこの人だって少しや傍目《はため》というものがあろうじゃないか。あ
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