の寝間へはいって行くと、少年は栗鼠の外套をきてベッドに腰かけて、聖者伝を読んでいるところだった。
「何を読んでるの、フェージャ?」と、カテリーナ・リヴォーヴナは肱掛椅子にかけて、少年にたずねた。
「聖者伝ですよ、おばさん。」
「おもしろいこと?」
「ええ、とても面白いの、おばさん。」
 カテリーナ・リヴォーヴナか片手で頬杖をついて、フェージャのもぐもぐ動いている唇を見まもっていたが、そのとき急に悪魔が鎖から抜けだしでもしたかのように、いつもながらあの考え――つまり、この子のおかげで自分はひどい迷惑を蒙っている、この子がいなかったらさぞさばさばするだろうに、という考えが、むらむらっと胸に湧いてきた。
『ほんとにそうだったわ』と、カテリーナ・リヴォーヴナは思うのだった、――『この子は病気で薬をのんでるんだわ。……病気のときは、えてして色んな故障が起りがちなものだ。……万一のことがあったところで、医者がつい盛り違えをしたんだろう――くらいなところで、済んでしまうに決まってるわ。』
「そろそろ薬の時間じゃないこと、フェージャ?」
「ええ、どうぞ、おばさん」と少年は答えてスプーンを一啜りすると、こう言い添えた、――「とても面白いですよ、おばさん、いろんな聖者さまのことが、うまく書いてあるんですよ。」
「へえ、まあたんとお読みな」――カテリーナ・リヴォーヴナはぽつりと言ったが、冷やかな眼ざしで部屋のなかを見まわしながら、やがて霜の絵模様がべったり附いている窓に視線をとめた。
「窓の鎧戸をおろすように言わなくちゃいけないわ」と彼女は言うと、客間へ出てゆき、そこから広間へ抜けて、やがて二階の自分の部屋へはいると、ちょっと腰をおろした。
 五分ほどすると、その二階の部屋へ、羊皮の半外套にふかふかしたオットセイの笹べりのついたやつを着込んだセルゲイが、むっつり黙ってはいって来た。
「窓は閉めさせたかい?」とカテリーナ・リヴォーヴナは聞いた。
「閉めさせました」とセルゲイは答えると、心切《しんき》りで蝋燭の心をつまみ、ストーヴの前に立ちどまった。
 沈黙がおとずれた。
「今夜の晩祷は、なかなかお仕舞いにやならないだろうね?」と、カテリーナ・リヴォーヴナがたずねた。
「大祭日の前夜ですからね、お勤めは長いはずですよ」と、セルゲイが答える。
 またもや話がとだえた。
「ちょっとフェージャを見に行ってくるわ、一人ぼっちでいるからね」と、腰をもちあげながら、カテリーナ・リヴォーヴナが言った。
「一人ぼっちですって?」――じろりと上眼づかいに、セルゲイが聞き返した。
「一人ぼっちさ」と、ひそひそ声で彼女は答えて、――「それがどうしたの?」
 ふと二人の眼から眼へ、なにか稲妻のようなものがさっと閃めいた。だがもうそれっきり、お互いに一ことも言わなかった。
 カテリーナ・リヴォーヴナは下へおりて、人気のない部屋から部屋へと抜けていった。どこもシンとしている。みあかしが静かに燃えている。壁づたいに自分の影が走りまわる。鎧戸のしまった窓は、そろそろ融けはじめて、しずくが筋をひいて流れる。フェージャは相変らず腰かけて、本を読んでいる。カテリーナ・リヴォーヴナの姿を見て、彼はただこう言っただけだった。――
「おばさん、この本をしまって下さいな。それから済みませんが、聖像棚にのっているあの本を取って下さい。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは甥の頼みをきいて、その本を取ってやった。
「そろそろ寝たらどう、フェージャ?」
「いいえ、おばさん、僕おばあさんの帰るまで起きています。」
「起きていたって仕様がないじゃないの?」
「だって、晩祷の聖パンを頂いて来てくれるって、約束したんですもの。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは急に蒼い顔をした。腹のなかのわが子が、みぞおちの辺で初めてぶるん[#「ぶるん」に傍点]と動いて、寒気が胸のなかを突っぱしったのである。暫くそのまま部屋のまん中にたたずんでいたが、やがて冷たくなった両手をこすりこすり出ていった。
「さあ!」――彼女はそっと自分の寝室へあがると、そうささやいた。セルゲイは相変らずストーヴの前の、元の場所に立っていたのである。
「え?」――聞こえるか聞こえないくらいの声でセルゲイは問い返し、そこで唾にむせた。
「一人ぼっちでいるのさ。」
 セルゲイはぴくりと眉をうごかし、苦しそうな息づかいになった。
「さ行こう」――ぱっと扉の方へ向きなおって、カテリーナ・リヴォーヴナが言った。
 セルゲイは手ばやく長靴をぬぐと、こうたずねた。――
「何を持っていく?」
「いらない」――気音だけでカテリーナ・リヴォーヴナは答えると、男の手を引いてそっと案内していった。

      ※[#ローマ数字11、1−13−31]

 病気の少年は、三たびカテリーナ・リヴォーヴナがはいってくるのを見ると、ぎくりとして、本を膝へとり落した。
「どうかしたの、フェージャ?」
「ああ、おばさん、僕ただ、なんだかびっくりしたの」と少年は、おずおずと頬笑みながら答えて、ベッドの隅へ身をにじらせた。
「何をびっくりしたのさ?」
「だって、誰か一緒にきたんじゃなかった、おばさん?」
「どこに? 誰も一緒になんか来やしませんよ。」
「だあれも?」
 少年はベッドの裾の方へ伸びあがって、眼をほそめて、今しがたおばさんのはいって来たドアの方角を眺めたが、それで安心がいったらしい。
「きっと、そんな気がしただけだったのね」と、少年は言った。
 カテリーナ・リヴォーヴナは立ちどまると、甥のベッドの枕もとの屏風《びょうぶ》板に両肘をついた。
 フェージャはおばさんの顔を振り仰いで、なんだかひどく顔色がわるいのねと言った。
 そう図星を指されてカテリーナ・リヴォーヴナは、出まかせに空咳を一つしてみせ、期待のまなこで客間のドアを見やった。そこではただ床板が、みしりと微《かす》かに鳴っただけだった。
「今ね、ぼくの守り神の聖フェオドル・ストラチラートの一代記を、読んでるところなんです。神様に仕えるっていうのは、なるほどあれでこそ本当なんですね。」
 カテリーナ・リヴォーヴナは黙然と立っていた。
「ねえおばさん、そこへお掛けにならない、僕もう一ぺん読んであげるから。いいでしょう?」と、甥は甘えかかった。
「ちょっと待って。今すぐ、広間のお灯明を直して来ますからね」と、カテリーナ・リヴォーヴナは答えるなり、いそぎ足で出ていった。
 やがて客間で、じつに微かなひそひそ声がした。だがそのささやきは、何せあたりが森閑としているものだから、子供のさとい耳につたわって来た。
「おばさん! それなあに? そこで誰と、そんなひそひそ声で話してるの?」と、少年は涙ごえで呼びかけた。――「ここへいらっしゃいよ、おばさん。僕こわい。」
 そう、一秒ほどすると少年はまた追っかけて、これはもう殆ど泣き声になって呼んだが、と同時にカテリーナ・リヴォーヴナが客間で『さあ!』と言ったのが聞え、少年はそれを自分に掛けられた声かと思った。
「何がこわいのさ?」とカテリーナ・リヴォーヴナは、決然たる足どりでつかつかとはいって来ながら、なにか嗄れたような声で問いかけて、そのまま客間のドアをわが身で病人の眼からさえぎるような恰好で、ベッドの前に立ちふさがった。――「もうお寝なさい」と、すぐまた続けて彼女は少年に言った。
「だっておばさん、ぼく睡くないもの。」
「いいえ、フェージャ、いい子だからもうお寝なさい……時刻ですよ……もうお寝なさい」とカテリーナ・リヴォーヴナはくり返した。
「どうしてなの、おばさん! 僕ちっとも睡くないのにさ。」
「いいえ、寝なくちゃ駄目、寝なくちゃ駄目」と、カテリーナ・リヴォーヴナは又しても声変りのした、おどおど声でくり返しざま、少年の腋の下をかかえて、むりやり枕につかせた。
 その瞬間、フェージャは狂気のような悲鳴をあげた。まっ蒼な顔をして跣足ではいって来たセルゲイを、少年は見たのである。
 カテリーナ・リヴォーヴナは自分の手の平でもって、おびえあがった子供が恐怖のあまり開けた口をふさいで、こう叫んだ。――
「さ、早くおし。しっかり抑えて、じたばたさせるじゃないよ!」
 セルゲイがフェージャの両手両足をつかまえると、カテリーナ・リヴォーヴナはあっという間もない早業で、受難のあどけない小さな顔を大きな羽根枕でふさいで、その上から自分のぴちぴちした硬い胸でもって、ぐいと乗りかかった。
 ものの四分間ほど、部屋のなかは墓場のような沈黙だった。
「さ、お陀仏だ」と、カテリーナ・リヴォーヴナはささやいて、どれ後始末をしようと身をもたげたその刹那、度かさなる犯罪を秘めて森閑としているその家の四壁が、耳を聾せんばかりの打撃を受けて、ぴりぴりと震動しだした。窓ががたつく、床板がゆらゆらする、吊るしてあるお灯明の鎖がふるえだす、という騒ぎである。それのみか、壁から壁へまぼろしのような影が、ちらちらする始末だった。
 セルゲイはがたがた顫えて、一目散に駈けだした。カテリーナ・リヴォーヴナはそのあとを追ったが、ざわめき立つ物音も二人のあとを追って来た。さながらそれは、何かしら地上のものならぬ威力が、罪ぶかい家を土台骨まで揺さぶっているようだった。
 カテリーナ・リヴォーヴナの心配したのは、セルゲイが恐怖のあまり我を忘れて中庭へ駈けだし、そのとりみだした態度で衆人の疑念を買いはしまいかということだったが、案に相違して彼は、まっすぐ屋根裏へ突進していった。
 階段を駈けあがりきったところで、セルゲイは暗がりの悲しさ、半びらきになっていたドアに嫌っとこさ額をぶつけて、ううんと一こえ、いきなり下へ転がり落ちた。迷信も手つだった恐怖のあまり、まったく無我夢中だった。
「ジノーヴィー・ボリースィチ、ジノーヴィー・ボリースィチ!」と、彼は呟きながら、まっさかさまに階段をころげ落ちるのだったが、その拍子にカテリーナ・リヴォーヴナも足をさらわれて、とんだ道づれにされたのである。
「どこにさ?」と彼女がたずねた。
「そら、あっしらの頭のうえを、鉄板を持って飛んで行きやしたぜ。そらそら、また来た! うわあ!」と、セルゲイがさけぶ。――「鳴りだした、また鳴りだした!」
 もうその頃は、事情はすこぶるはっきりしていた。つまり大勢の人が手んでに窓を表から叩いているのだ。なかには玄関の戸を押し破ろうとしている者もある。
「馬鹿だね! お起き、みっともない!」と、カテリーナ・リヴォーヴナはどなりつけると、その声の終らぬうちにいっさんにフェージャのところへとって返し、少年の死首をいかにも自然に眠っているような恰好に枕のうえに安置してから、群衆が押しこもうと犇めきあっている玄関の戸を、しっかりした手で明けはなった。
 見るもすさまじい光景だった。カテリーナ・リヴォーヴナが、玄関をとり巻いている群衆の頭ごしに見渡すと、高い塀を乗り越え引っ越え一波また一波と、見知らぬ連中が屋敷うちへなだれ込んでくる。往来はまた往来で、人ごえが一つの呻き声になって立っている。
 カテリーナ・リヴォーヴナが呆気にとられているうちに、玄関をかこんでいた群衆は彼女をもみくしゃにして、どっと室内へ押し戻してしまった。

      ※[#ローマ数字12、1−13−55]

 ところでこの大騒ぎは、じつはこういうわけだった。――年に十二の大祭日の前夜におこなわれる晩祷には、たかだか郡役所のある町にすぎぬとはいえ、カテリーナ・リヴォーヴナの住んでいるようなかなり大きな工業都市になると、教会という教会はぎっしり人波でうずまるのであったが、しかもそれが、あす祭壇のしつらえられる教会だと、境内は林檎の実ひとつ落ちる隙もなくなってしまう。そこでは通例として、商家の若者から選抜された唱歌隊が、おなじく声楽のアマチュアの中から選ばれた特別の音頭とりに率いられて歌うことになっている。
 わが国びとは信心ぶかく、教会がよいがなかなか熱心であるが、したがってまた、それ相応に芸術ずきでもある。けだし教会
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