たら、小作料を取り立てに歩く差配さんにそっくりだった。
カテリーナ・リヴォーヴナが、猫のふかふかした毛並みに指をさし入れて、もぞつかせはじめると、相手はただもう無性に鼻づらをすり寄せてくるのだった。もっさりと気の利かない髭面を、むっちりした胸のふくらみへ押しこんできながら、何やら小声で鼻唄をうたいだす様子は、その唄がやがて恋のささやきででもあるかのようだった。――『おや、ぜんたいなんだって、こんな猫がはいって来たんだろう?』とカテリーナ・リヴォーヴナは考える、――『凝乳《クリーム》をあたし、あの窓わくのところに載っけといたっけが、てっきりこの野良猫め、あれを狙っているんだわ。よおし、追い出しちまおう』と、彼女は思いさだめて、その猫をつかまえて抛りだそうとしたが、とたんに相手はまるで霞みたいにするりと指のあいだをすり抜けてしまうのだった。――『それにしても一たいどこから、この猫の奴はいり込んだんだろう?』と、悪夢のなかでカテリーナ・リヴォーヴナは思案をつづける、――『あたしたちの寝室には、ついぞ猫なんかいたためしはなかったのにさ。よりによってええ畜生、とんだどら猫が舞いこんだものだよ!』そう思って、またも片手で猫をつかまえようとするが、ふたたび相手は影も形もない。――『おや、これは一たい何ごとだろう。冗談じゃないよ、あいつ一たい猫かしら?』と、カテリーナ・リヴォーヴナは、ふとそう思った途端に、ぞおっと総毛だたんばかりの恐怖が身うちを突っぱしって、夢魔も睡魔も一ぺんに消しとんでしまった。カテリーナ・リヴォーヴナは、ぐるりと部屋のなかを見まわした。――猫なんぞいはしなかった。美男のセルゲイが寝ていて、その逞ましい片手でもって彼女の胸を、じぶんの火照った顔へ押しつけているだけである。
カテリーナ・リヴォーヴナは起きあがると、寝床に横坐りになって、セルゲイを接吻ぜめにした、愛撫ぜめにした。やがて、もみくちゃになった羽根ぶとんの皺を直すと、ひとりで庭へお茶をのみに下りていった。太陽はもうすっかり傾いていて、かっかと熱しきった大地には、えもいわれぬ蕩《とろ》かすような暮色が、ようやく垂れこめようとしていた。
「寝坊しちゃったわえ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは、アクシーニヤに話しかけて、花ざかりのの林檎の木の下に敷かれた毛氈に坐りこみ、お茶をのみにかかった。――「けどねえ、アクシニューシカ、妙なことがあればあるもんだよ」と、彼女は手ずから小皿を茶ぶきんで拭き清めながら、おさんどんにそれとなく鎌をかけてみた。
「なんですかね、おかみさん?」
「それがね、どうやら夢らしくもないんだけどね、とにかくこうありありと、どこかの猫が一匹、あたしの寝床へちゃんともぐりこんで来たのさ。」
「あら嫌ですよ、おかみさん、まさか?」
「ほんとにさ、猫がもぐりこんで来たんだよ。」
そう言ってカテリーナ・リヴォーヴナは、その猫のもぐり込んでいた次第を話して聞かせた。
「でもおかみさん、なんだってそんな猫なんぞを、可愛がってやんなすったんですね?」
「うん、つまり、そのことさ! どうして撫でてやる気になったものか、われながら合点がいかないんだよ。」
「妙ですねえ、ほんとに!」と、おさんどんは感嘆した。
「当のあたしだって、考えれば考えるほど不思議でならないんだよ。」
「てっきりそりゃあ、誰かがこう、そのうちひょっくりやって来るというお告げか、さもなけりゃ、何か思いがけないことでもある、という前兆かもしれませんねえ。」
「って言うと、つまり何だろうね?」
「さあ、つまり[#「つまり」に傍点]これこれということになると、そりゃおかみさん、誰にだってはっきりとは申し上げられますまいけれどね、それはまあそうとして、きっと何かありますよ。」
「それまではずっと、お月さまの夢を見ていたんだがね、それから猫が出て来たのさ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは先をつづけた。
「お月さんなら――赤ちゃんでございますよ。」
カテリーナ・リヴォーヴナは頬を紅らめた。
「セルゲイもここへ呼んで、相伴をさしておやんなさいますかね?」と、そろそろ心得顔でせせり出しそうな気合いを十分に見せながら、アクシーニヤはお内儀さんの気を引いてみた。
「ええ、いいわ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは応じた、――「なるほど、そうだったわね。ちょっと迎えに行ってきておくれ、お茶を御馳走してあげるからって。」
「それそれ、わたしもそう思っておりましたんですよ、ここへ呼んでやろうとね」とアクシーニヤは釘をさして、よちよち家鴨《あひる》のように庭木戸の方へ歩み去った。
カテリーナ・リヴォーヴナは、セルゲイにも猫の話をして聞かせた。
「なあに、気の迷いさ」と、セルゲイは片づけた。
「でもさ、気の迷いなら迷いでいいけど、なぜそれが、今までついぞなかったんだろうね、ねえ、セリョージャ?」
「今までなかったことなんぞ、ざらにあらあな! 現に見ねえ、ついこのあいだまでは、おいらは只お前さんを遠目に拝むだけでさ、人しれず胸を焦がすのが落ちだったもんだが、今じゃどうだい! お前さんのむっちりと白いからだは、まるまるみんな俺らのもんじゃないか。」
セルゲイは軽がるとカテリーナ・リヴォーヴナを抱きあげると、宙でぐるぐるぶん※[#「廴+囘」、第4水準2−12−11]しにして、冗談はんぶん彼女をふっくらした毛氈の上へ投げだした。
「ふうっ、目がまわるじゃないの」と、カテリーナ・リヴォーヴナは勢いこんで、――「ねえセリョージャ! こっちへおいでな。ずっとそばへ寄ってお坐りよ」と、長々と伸ばした身の曲線を惜しげもなく男の眼にさらしながら、甘えた口調で呼びかけた。
若者は身をかがめて、いちめんに白い花で蔽われた林檎の下蔭にあゆみ入ると、カテリーナ・リヴォーヴナの足のあいだへにじり込んで、毛氈にどっかと腰をおろした。
「あたしに焦がれていたって、それ本当、セリョージャ?」
「なんで焦がれずにいらりょうか、ってことさ。」
「一体どんなふうに焦がれてたのさ? それを話してお聞かせな。」
「話してきかせろったって、じゃどう言やいいんだい? 焦がれるの何のということが、口で講釈できるものだとでもいうのかい? 恋しかったんだよ、おいら。」
「でもさ、セリョージャ、それほどお前さんが思いつめていてくれたものを、あたしがどうして感じずにいたんだろうねえ。だってほら、世間でよく以心伝心なんて言うじゃないか。」
セルゲイは無言だった。
「一たいお前さん、あたしがそんなに恋しかったのなら、なぜあんなに面白そうに唄ばかり歌ってたのさ? だってあたし、納屋の差掛のところで歌っている声がよく聞えて来たものだけれど、あれはきっとお前さんの声だったに違いないもの」と、相かわらず甘えながら、カテリーナ・リヴォーヴナは問いつづけた。
「唄ぐらい歌ったって構わねえじゃないか? 蚊とかブヨとかいう奴は、生まれるとから死ぬまで歌っているけれど、何も嬉しくって歌うわけじゃあるまいぜ」と、セルゲイは素気なく答えた。
話がとだえた。カテリーナ・リヴォーヴナは、はからずもセルゲイの胸中を聞き知って、天に昇らんばかりの法悦にひたるのだった。
彼女はやたらに喋りたがったが、セルゲイは眉をしかめて黙りこくっていた。
「まあ、ご覧よ、セリョージャ、すばらしいわ、まるで天国だわ!」とカテリーナ・リヴォーヴナは高らかに叫んだ。その眼は、彼女のうえに蔽いかぶさっている花ざかりの林檎のぎっしり茂った枝ごしに、澄みわたった青灰いろの空をじっと見あげている。そこには満月が冴え冴えとうかんでいた。
月の光は、林檎の葉や花のあいだをこぼれて、世にも気まぐれな明るい斑らを、仰向けに寝ているカテリーナ・リヴォーヴナの顔や全身に、さざ波のようにちらつかせていた。大気はひっそりしていた。ただかすかな生暖かいそよ風が、眠たそうな葉並みを時おりさやさやとそよがせて、花をつけた野の草や木々のほのかな香りを、あたりに振りまくばかりだった。つく息は、なにがなしに悩ましく、さながら怠惰へ、安逸へ、さらには小暗い願望へと、人の心をそそりたてるかのようだった。
カテリーナ・リヴォーヴナは、男の返事がないので、また無言にかえって、うすバラ色をした林檎の花ごしに、相かわらず夕空を見つめていた。セルゲイもおなじく無言だったが、これはべつに夕空に気をとられているわけではなかった。両手で膝をかかえたまま、彼は一心にじぶんの長靴をみつめていた。
まさに一刻千金の良夜である! 静けさ、ほの明り、かぐわしい花の匂い、それにまた、人の心をよみがえらせ力づける仄温かさ。……庭の裏手の、窪地をへだてた遥かかなたで、どこかの男がよく透る声で唄いはじめた。垣根のそばの、匂《におい》ザクラの茂みでは、夜鳴きウグイスがまずそっと小手調べをして、やがてのどいっぱいに囀りはじめた。高々とそびえる竿のうえの鳥かごでは、ねぼけたウズラが何やらぼそつきだすし、馬屋の壁のなかでは肥えふとった馬が一匹、いかにも切なそうな鼻息を立てる。かと思うとまた、庭の垣根の向うにひろがった牧場を、浮き浮きした犬の群がもの音ひとつ立てずに駈け抜けて、今では廃屋も同然の古い塩倉の描きだす、あやしげな恰好をした黒い影のなかへ消え失せる。
カテリーナ・リヴォーヴナは、片肘たてて起き返ると、高だかと伸びた庭の草を眺めわたした。その草もやっぱり、木々の花や葉並みにさんさんと砕けちる月光のきらめきと、しきりに戯れている。例の気まぐれな明るい斑らが、草を一本一本金色に染めあげて、それでもなお足りずにそのうえにちらついたり揺らめいたりしている有様は、火のような紅蛾のはげしい羽ばたきか、それともその木かげの草むらが、一からげに月の投網《とあみ》に引っかかって、あちこち泳ぎまわっているところか、と疑われるばかりだった。
「ねえ、セリョージェチカ、なんて素晴らしい晩だろうねえ!」と、くるりと振り返って、カテリーナ・リヴォーヴナは声高にさけんだ。
セルゲイは、くそ面白くもないといった顔つきで、一応あたりを見まわした。
「どうしたのさ、セリョージャ、そんなつまらなそうな顔をして? それとももう、あたしたちの恋なんか、あきあきしたとでもいうのかい?」
「つまんない事を言うもんじゃねえ!」と、セルゲイは素気ない調子で応じて、身をかがめると、さも面倒くさそうにカテリーナ・リヴォーヴナに接吻をあたえた。
「浮気なんだねえ、お前は、ええセリョージャ」と、カテリーナ・リヴォーヴナはつい嫉妬に口をとがらせて、――「だらしがないんだねえ。」
「よしんばそれが、ただの口説《くぜつ》にしたところで、おいらにゃ一向、身におぼえのないことさ」と、セルゲイは落ちつきはらった口調でこたえた。
「じゃ、なんだってそんなキスの仕方をするのさ?」
セルゲイは、すっかり黙りこくってしまった。
「そんなのは、夫婦の仲でしかしないものだよ」と男の渦まき髪をいじくりながら、カテリーナ・リヴォーヴナは言いつのった、――「つまり、お互いに唇の埃を払いあうだけのことさ。お前、かりにもあたしに接吻するからにゃ、そらあたしたちの上の林檎の木からね、咲きたての花がポトリと地めんへ落っこちずにはいないようにするものだよ。」
「そらね、こう、こうするものさ」と、カテリーナ・リヴォーヴナは囁きざま、情夫のからだをぎゅっと抱きしめて、情熱に身もだえしながら唇を押しつづけた。
「ねえ、セリョージャ、あたしの言うことをお聞き」と、カテリーナ・リヴォーヴナは、暫くしてまた言いだした、「お前さんのことというと、みんなきまって浮気者だというのは、一体どうしたわけなんだろうね?」
「そんな悪口を言いふらす奴は、一体どこのどいつですかい?」
「だってさ、みんながそう言うもの。」
「そりゃ俺らだって、まるっきり惚れる値打ちのない女たちにゃ、煮湯をのましたこともありまさあ。きっとそんな時のことを言うんだろうなあ。」
「なんてお馬鹿さんなの、お前は、惚れる値打ちのな
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